「体の知性を取り戻す」
なんでもかんでも、「これビリーフリセットじゃん」と思ってしまう。
でもこれは、まさに、ビリーフリセットの考え方と同じだなと思いながら読んだ本。「体の知性を取り戻す」
まさに「ビリーフ」だ。緊張して、窮屈なはずなのに、それが「当たり前」になってしまう。
わたしは「なんとなく」が多い。なんとなくで生きている。ぼんやりしてると言えばそれまでだけど、「感性」の人間なのだ。その「なんとなく」が指標であり、わりと合ってる。
それでも、「そんなもの」はダメだ。役に立たない。そう思って生きてきた。
自覚はなかったけれど、幼少期の「緘黙」や「体を固める」ことのルーツはここにあるのかもしれない。
↑ 第3章「基本」とは何か
この章は、武術のことで書かれてはいるけれど、自身の経験として他の場面でも重なり、モヤモヤしていたことが整理された気がする。
わたしは「教える」ことが苦手だ。だから自分は「わかってない」のだと結論づけていたのだけれど、どうもそれだけではない。
「基本」はあるものの、感覚的に行っている、「なまもの」で変化していて「同じ」はない。
そこをマニュアル的に、これをやればいい、これで合っているかといったことに拘ると、つい「どうでもいい」と言いたくなる。そこに根拠とか理由がないわけでもないけれど、大事なのはそこじゃない気がしてしまう。だって、「そうなのだから」としか言いようがない。なかなか人に伝えられないことだし、結局いい加減なのかなと自分自身も揺らいでしまう。
だから、「できること」のはずなのに、それを再現性をある手法として教えられない。
これを読んで、ますます幼少期の自分を思い出した。幼少期だけではないのだろうけれど、自分の動かなさ、体を固めている様は、「死体になろうとする」の表現がぴったりだ。あまりに身もふたもないけれど、まさにそれだと思う。
ちょっぴり悲しい気持ちになった。
そして今、それでも「動こう」としている。
それは、体に立ち返ることでもある。頭で考えるのではなく、動く、動かすことからフィードバックを得る。体を意識する。
死体から生体へと戻っていくプロセスなのかもしれない。
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