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変わるものと変わらないもの。ダムに沈んだ夕張の街で考えた居場所

 人は誰しも、ここがわたしの「居場所」と感じる風景を持っているものです。ただ、その場所が永遠に変わらず存在し続けるとは限りません。 

 その思いを確かめる機会に恵まれました。夕張市東部の鹿島地区で2024年9月に開かれた「沈んだ街あるき」という催しです。

 ダムの湖底に沈んだ炭鉱の街が、水位の低下によって一時的に姿を現すこの時期。かつて存在した人々の暮らしの痕跡をたどる体験は、居場所という言葉の意味を掘り下げる旅となりました。


2万人が暮らした炭鉱の街

 炭鉱の街として栄えた鹿島地区は、三菱大夕張炭鉱の繁栄とともににぎわい、1955年(昭和30年)には約2万人もの人々が暮らす、活気に満ちた街でした。小学校から高校までの教育施設、映画館、銀行や郵便局が建ち並び、整然と区画された社宅街は「炭鉱のまち」の象徴でした。

大夕張鉄道千年町駅前の今。木製電柱は当時のままという
栄町商店街の過去と今

 時代の流れは街の姿を変えていきます。エネルギー革命による石炭産業の衰退、そして炭鉱の閉山により、住民の多くが離れていきました。2015年にシューパロダムが完成すると、街の大半が静かに湖底へと沈んでいったのです。

北海道拓殖銀行(拓銀)大夕張支店の跡地は林になっている
かつてのまま現存する「キリ助」のモニュメント

湖底に残された生活の痕跡

 湖底から姿を現したのは、舗装路や電柱といった、わずかな痕跡のみ。ここに大勢の人が住んでいたとは、到底信じられない思いで、かつての市街地をさまよい歩きました。

あちらこちらに生活の痕跡を見つけることができる

 自然に返ってしまったくさむらに分け入り、注意深く目を凝らすと、生活の痕跡が見つかります。住宅の礎石、割れた茶碗の破片、浴室のタイル、排水管の数々。人々の暮らしを雄弁に物語っていました。

豆腐店の看板

 わたし自身、旧産炭地の環境に似た、企業の社宅街で生まれました。不況の波に洗われ、社宅街が縮小する中、社宅を転々とすることを余儀なくされ、取り壊されていく建物を見て育ちました。

社宅街のメインストリート

 形あるものはいつか消えゆく、という諦めのようなものが、この日の散策に意味を持たせていました。

何ともいえない荒涼とした景色が広がる

変わらない山並みが語るもの

 歩き回って気づいたのは、物理的な居場所が失われたとしても、心のよりどころなるものは残るということ。目の前の風景と、最盛期を写した写真を見比べると、街並みは自然に返っているにもかかわらず、周囲の山々の稜線は驚くほど同じ形を保っていました。

 夕張と同じ旧産炭地の芦別で出会った学芸員から教わった「産業が衰退し街が消えても、山並みだけは変わらない」という言葉の意味を、目の当たりにしたのです。

十字架を思わせる、基礎と思われる遺物
往時のままの山並みが見守る

 往時のままの山並みは、変わり果てた街との対比で、失われたものの大きさを際立たせる一方で、時を超えて存在し続けるものがあるという事実に、どこか慰めのようなものを感じました。

 たとえ物理的な居場所が失われたとしても、心のよりどころとなるものは残るのではないか。それは山並みであり、生活の痕跡であり、人々の記憶です。失われた場所と人々を結びつける、見えない絆があるような気がしました。

記憶は確かに息づいている

 ただ、戦争や災害など、さまざまな理由で古里を失い、帰りたくても帰れない人々にとって、この思いは別の意味を持つのかもしれません。

 残された痕跡は、そこに生きた人々の記憶を呼び起こしますが、あくまで過去の記憶です。未来への希望を失い、過去の記憶にすら寄りかかることができない人々にとって、居場所とは何か。明確な答えを見つけることはできませんでした。

拾い集められた空き缶・空き瓶
デザインや形が時代を物語る

 ダムに沈んだ街の記憶は、単なる過去の遺物ではなく、今を生きる私たちに、居場所とは何か、喪失とは何か、そして未来に何を残していくべきなのかを問いかけているように感じました。

 変わることのない山並みの下で、人々の記憶は今も確かに息づいていました。

けなげに咲く黄色い花

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掲載した写真は全て RICOH GR DIGITAL IV で撮影しました。

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はなふさふみ
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