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待つこと、自然体であること
北海道の二月は、まだ冬の気配が色濃く残る。日高地方西部、新冠(にいかっぷ)の空は鉛色に沈みがちだ。厚別川の流れは氷の縁取りをまといながら太平洋へと続いている。
わたしは、河口に架かる旧日高本線の橋梁を眺めている。
かつては列車が行き交い、人々の暮らしを支えていた橋を渡る線路も、今は列車の音を忘れ、ただ風と波の音だけが聞こえる。
どんなに待っても、列車は来ない。それでもわたしはここに立ち、待つことについて考える。
自然の営みは違う。春の訪れをせかすことはできなくとも、確実にその季節は巡ってくる。庭いじりをしていると実感する。
待つことでしかかなえられない希望。この受け身の姿勢が、時に、心を解放してくれることがある。
競馬でいう「馬なり」。馬が走るままにまかせている状態をいう。新冠をはじめ日高地方は、競走馬となる軽種馬の産地。まだ色を持たない牧草地を思い思いにかける馬たちを見ていると、人の生き方においても同じではないかと考えてしまう。
自らの内なる流れに身を任せてみる。完璧を求めず、自然体でいる。この気づきは、表現活動にも変化をもたらした。noteへの投稿も、完璧を手放し、ありのままに伝えたいという意欲が芽生えたとき、少し楽になったような気がした。
待つことについて考えてしまうのは、過去の失敗を、静かに時を過ごすことで精算してきた経験があるからかもしれない。かつて急ぎすぎて判断を誤り、大きな代償を払ったことがある。時には、何もしないことが最良の行動になることを学んだのだ。
橋の向こうで海と空が鮮明な境界線を描いている。わたしは橋をぼーっと見つめている。もう列車の走る音を聞くことはできないが、川の流れる音、風の音は耳に届く。これらの音に耳を傾けながら、内なる声にも耳を澄ませてみる。
待つという姿勢の中に、自分の本質を見出してきたような気がする。それは決して消極的な態度ではなく、自然の流れに身をゆだねる積極的な選択なのだ。
これからも、時には待ち続けよう。何かを、誰かを、自分自身の変化を。いまのわたしにとって自然な生き方なのだ。
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新冠町と日高町の境界にて Niikappu / Hidaka 20250130
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