オタクこそ嫌いなものを語るべきという話

 人は「好きなもの」について語るとき、そこに責任が生じることが稀にあります。例えばアニメが好きという人がいれば、今や「アニメオタク」の「古典」ともなりつつある作品をおさえて話せなければならないか、あるいは「今季のアニメ」について少なくとも「覇権」と呼ばれるものとそうではないものの数本は見ていなければならないというような感じです。「趣味」というものに関しても同様で、例えば「美術館をめぐることが趣味です」という人は週に月にどのくらいいくのかということであったり、時代区分や好きな芸術家について語る、今後行きたいと思っている場所などを聞かれる可能性があることを考慮しなければなりません。現在の「オタク」概念は変容しつつあり、「推し」という言葉のように主に「好きなもの」に関する換喩性を持つ存在であり、コミュニケーションツールであり、あるいはコミュニティそのものを指す言葉でもあります。

 しかしこれは「オタク」というものにアイデンティティを見出す10年近く前のオーディエンス論からすれば妥当でありつつ、スマートフォン時代の現在からすれば矛盾を抱えるものでもあります。なぜなら任意のコミュニティへのアクセスに対する自主性や容易度が易化しているからです。

 古代ギリシア哲学者のエンペドクレスは万物の根源を火・水・空気・土として考えました。そしてそれは、愛によって融合し憎によって分離すると言います。地球が綺麗な球体なのは、それが愛に満たされているからです。
 ここから考えると、確かに好きなものというのは融合の理論としてのコミュニティ形成において他者と繋がるためのツールたりえます。しかしながら現代の個人主義崇拝の時代においてはある程度の分節をもって「自己」なるものを確立することが求められます。仮に「オタク」がアイデンティティ概念であるならば、分離の理論からして、オタクは何が嫌いかを語ることこそが自己形成ないし自己分析において必要ということになります。

 しかし、ここで注意すべき点が二つあります。一つは客観的で対話的(あるいは対話的な自己内省)な批評に徹するべきということです。情動に任せるのはただの仕分け作業ですし、何よりそれが他者との対話の阻害になりうるからです。また「好き」についての理論も欠けてはならないからです。
 もう一つは究極真理的な存在Xを措定しないことです。これというのは自然主義的で否定神学的なのですが、「これは真理ではない」「これも真理ではない」といって取り除いていくことでより真理に近づいていこうとすることで、完全な真理があるという前提に基づいた思想です。これをしてしまうとある程度好きだと思えた作品も自己から乖離していき、自分にとっての金ピカが離れていくことになります。仮に出会えたとしても、「これ以上のものはない」という古典主義的な発想になります。(17世紀ごろの西洋は古代ギリシア・ローマ時代を文化上最上のものとしていました。)それは、自らの中のアイデンティティ変化を固着させ、そのうち自らに生じる変化に対応しきれず「アイデンティティ」からも疎外されることになります。また、オタク理論がアイデンティティと結びつくならば、そうした古典主義的な「好き」アイデンティティは「オタク」からも逆説的に疎外されることになります。なぜなら、仮にその作品が究極真理的に優れたものであるならば、その素晴らしさは全人類に感得される(崇拝的)対象であり、何一つ自分自身と同体化する輝きにはなりえないからです。キリスト教に熱心な人も、自らをキリスト(教)オタクだとか神オタクだとは言わないでしょう。

(①後述の「在る形式」としての隣人愛的思想が衰退した②個人主義崇拝の台頭とその功罪である所在・所属の危機が生まれた③それによって「アイデンティティ」概念、さらには「オタク」概念が出てきたと考えれば遡及的な歴史の辻褄は合います。なぜなら「宗教」という枠組みはアイデンティティ概念形成の前からある枠組みだからです。)

 私が大学で授業を受ける中で印象に残った言葉があります。「『だから』ではなく『であるのに』を探せ」というものです。つまり「〇〇だから好き」というものではなく「〇〇であるにも関わらず好き」と言えるものを探しなさいということです。それは先述の、批評的な対話をしてもなお好きだと言えるものを探しなさい、ということに他ならないのではないか、と私は勝手に理解しています。これはエーリッヒ・フロムの「持つ形式」と「在る形式」にもつながるようで、是々非々を理解してもなおその存在まるごとを愛するということです。いつの間にか「オタク」といえば、「推し」といえば、それを全肯定する、というような意味合いのみが倒錯して表立っているように思われますが、本来は是々非々について理解するというプロセスがあったはずです。なぜならそれによって、客観的な価値と自分の中の価値というものを自らのうちに対等に並べることができるからであり、またそれによって自分の中の価値にある程度の客観性とアイデンティティの居場所を確保し、そのコミュニケーションによってコミュニティをも確保することが叶うからです。だからこそ私は、時々自分が好きなコンテンツについてボロカス言われていると悲しくなりつつも意見に触れることをやめられず、でもその作品に触れるごとに「やっぱりそれでも好きだなぁ」と再び感じるのです。結局この文章もそうした”自分自身の肯定、存在価値の確認作業”のオタクじみた文章(「批評による自己愛確立のための脳内自動制御装置」というべき?)なのですが笑。

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