文章をひねり出す訓練
私立中学を受験して、中高一貫校に通った。カトリック系の学校であったので、中学一年生から高校三年生まで、週に一コマ「宗教」の時間が必ずあった。
『聖書』を読む時間であったり、キリスト教にかかわる映画を見たり、平和学習の時間であったり、様々な授業が行われる時間であったが、ほぼ毎回、行われていることがあった。
「感想文」を書くことである。
手のひらサイズのメモ用紙が配られて、感想文を書く。せいぜい五行、数十文字程度であるが、これが非常に苦痛であった。
そもそも、授業の内容も退屈なのに感想などない、と友人たちと愚痴を言い合っていた。
しかも、年に数十回も書かされるその感想文は、返却されるでも、どこかに紹介されるでもなく、なんのために書かされているのかまったくわからなかった。より苦痛が増し、書く内容も薄っぺらいものばかりになっていた。しかし、それで注意を受けることもなく、成績に反映される科目でもない。真面目に書いている生徒は私も含めて、あまりいなかったのではないかと思う。
だが、続けていれば、空白を埋める技術は身につくものである。それらしい言葉をつないで、書き終わる時間ははやくなっていった。良し悪しはともかく、文章をつづっていく技術は上がったと思う。
これが生きたのはほかでもない、大学受験である。
小論文だけではなく、文系教科の論述問題などは、当然のことながら配点の大きい問題ほど字数は多い。
指定文字数の九割以上を書くために、この空白を埋める技術は大いに役に立った。とくに私の第一志望校のある教科の試験は、全て論述問題であったから、あの「感想文」地獄がなければ、合格できなかったかもしれないとも思う。
「宗教」の授業にそのような思惑があったのかどうか、今や遠く離れた母校に行く機会があれば聞いてみたいと思っている。
名文を書くには才能が必要かもしれないが、単に文章をひねり出す技術は訓練によって得られる。
書けない、と思ってもとりあえず駄文を書き続ける。テレビの感想、天気の様子、楽しいこと、腹の立ったこと、なんでもいい。手のひらサイズに数十文字。今となっては懐かしくもある。