
雲の影を追いかけて 第4章「後半」全14章
第4章「後半」
似たり寄ったりの建売が並ぶ住宅地に着いた。祥子は足を止め、繋いだ裕の手を離し、日傘を閉じた。鞄から家の鍵を取り出し、一軒家の扉を開けた。
「ただいま」
祥子の声が家内に鳴り響き、ひっそりと消えた。祥子の父の返事はなかった。室内は綺麗に掃除され、不要な物がなく整頓されていた。裕は、掃除する祥子を思い浮かべ、培った女性像と擦り合わせた。
「父さん、寝ているみたいね。さあ、裕君上がって」
祥子はスリッパを取り出し、床に置いた。裕は玄関に上がり、スリッパを履いて廊下を抜ける。祥子の父はどんな人だろうか、と不安を感じつつ足を進める。リビングに入り、祥子に促されて柔らかいソファに座った。目を動かしてリビングを見渡すと、液晶テレビの隣に佇む大きな本棚が目に入った。すぐに立ち上がり、本棚を眺めた。歴史小説や、洋書、物理学の本、著名人の自伝など、古今東西問わず様々な本が櫛比していた。初見の小説を手に取り、ページを開くと、所々に蚯蚓のような文字で難解な書き込みがあった。祥子の文字ではなく、祥子の父の書き込みだと察した。
「お待たせ」
祥子がアイス珈琲を手に持ち、リビングへ戻ってきた。裕は手に持っていた小説を棚に戻し、ソファに座った。祥子はアイス珈琲をテーブルに置き、対面の二人掛けソファに座った。
「珈琲どうぞ。本棚に並んでいるのは、全て父の本なの。たくさんあるでしょ。父は読書が趣味で、いつの間にかこんなに溜まってしまったのよ」
「たくさんの本だね。さっき手に取った小説には、沢山の書き込みがあったよ。あれって、お父さんの書き込みだよね?」
「そうなの。父は書き込みをしながら本を読むの。変わっているでしょう? 気に入った言葉とか、情景とか、その時に思い浮かんだ言葉とか。お陰で、古本屋に持ち込むことも出来ないのだけれど」
「本は、ある意味で、個人の自由空間だからね。決して小説家の自慰行為ものではない。読者のためにあるもの。書き込んでも、切り取っても、何をしても構わないと僕は思うんだ。お父さんは、寝ているの?」
「うん。昼寝している。この時間はいつも昼寝をしているのよ」
「ねえ、祥子さん。そっちのソファに行っても良いかな?」
「こっち?」
裕は頷く。祥子は何も言わずに、ソファ空間を空けた。裕は立ち上がり、祥子の隣に座る。祥子の父が起きて来ないか、と危惧しつつも、肌に触れたい一心で祥子の手を握った。祥子は裕の手に指を絡める。
「ねえ、裕君。私の手って、皺が多いでしょ。還暦間近のおばさんだから」
祥子は、繋いだ手を目線まで待ち上げ、蛍光灯の明かりに翳した。祥子の手の甲には、皺や皮膚の弛みが目立つ。裕の脳裡に、牛丼屋で勤務する女子大学生の手や腕が浮かんだ。比べれば、違いは歴然だ。裕は言葉に詰まった。正直に伝えるべきか、それとも気遣い、取り繕った称揚をすべきなのか。
「正直に言って良いのよ。その方が、嬉しいわ。私たちの関係を円滑に継続させるためにもね」
裕の思慮を、祥子が遮る。
「皺は沢山あるよ」
裕ははっきりと言った。
「そうよね」
寂寥感を織り交ぜた、祥子の小さな声が響く。
「でも、それは仕方がない。絶対に避けられないことじゃないかな。祥子さんは、僕より三十年も長く生きている。僕も、直に皺くちゃになり、頭は禿げ上がり、腰は曲がってしまう。恐らくは、汚いおじさんになるだろうね」
「私の方が、その速度が速いと思う。きっとね、数年経つと、目も当てられなくなると思う。分かりきった事だけれど・・・」
「分かっているよ。でも僕はこうしていたい」
「ありがとう。少し、安心した」
祥子は首を傾け、頭を裕の肩へ乗せた。祥子の髪の毛の香りが、裕の鼻腔を通過し、女性の隣に座るとの事実を植え付ける。裕は祥子の頭を眺めた。黒い髪の毛と対立するように、数本の白髪が生えていた。目を閉じ、握っていた手を離し、手を背中から回して祥子の頭を撫でた。
沸き立つ性欲を抑えつつ、思慮に耽る。それは、決して開けてはならない扉の鍵を開けるようなものだったが、思慮の波を止めることは容易ではない。『年の差婚』という、刹那的な話題性に釣られて飛び込んだ泉が、果たして、自分が歩みたい道へと続いているのだろうか。勿論、話題性が故に、執筆した本が売れ、小説家の生活は一時的に楽になるだろう。しかし、頭を撫でている祥子を幸せに出来るのだろうか。誰しも劣化し、そして死す。還暦間近の祥子は、子供を作ることが出来ず、血統が途絶えることになる。
劣化してゆく祥子を、倫理や道徳、善良や善意だけで愛することが出来るのだろうか。その倫理観すら、背徳感から生まれる善的行為であるなら、本来の愛ではなく、偽善的な側面を持っているはずだ。
心に群がる扉をノックし、恐る恐る開けてみた。その中には、疑念という空白が蠢いている。中を一瞥し、扉を閉じる。中の景色を覗いたため、扉をきっちりと閉じたとしても、感情に歪みが生じた。その歪みを止めることは出来ず、大きくなってゆく。
その時、
「祥子。祥子」
男の声が、裕の思考の邪魔をする。いや、救われたのかも知れない。枯れた老人の声だった。
「あ、お父さんが呼んでいるわ。ちょっと行ってくるね」
祥子は頭に乗った裕の手を優しく退かし、ソファから立ち上がった。
「僕も行くよ」
裕も祥子に続き立ち上がった。祥子は裕に向かって笑顔を作った。
祥子は冷蔵庫から果物ゼリーを、食器棚からスプーンをそれぞれ取り出し、キッチン奥にある扉を開けた。二人は部屋に入った。
部屋の中央には、小さなベッドが佇む。ベッドの横にはテーブルがあり、様々な本が積んである。窓が半分程開き、隅の扇風機が首を振り、巡る爽やかな風で部屋は涼しく保たれていた。
「お父さん、起きたの? お腹空いてない?」
祥子は、仰向けの父へ話しかけた。祥子の父は天井を見入っていた。
「ああ、少しお腹が空いたな。ゼリーはあるかい?」
「うん。果物ゼリー持ってきたわ」
祥子の父が顔を横に向けた。すると、裕と目が合った。祥子の父は白髪ばかりの頭で、頬が抉られたように痩せこけている。寝巻きから覗く手足も、骨が浮き彫りになっていた。しかし視力の衰えはなく、裕を見ると、目を見開いた。
「こんにちは」
裕は祥子の父へ挨拶をした。祥子の父は、小さく頷く。
「紹介するわね。こちらは、岸田裕さん。小説家よ。そして、寝ているのが私の父の、和夫」
祥子は裕と和夫の間に立ち、それぞれを紹介した。
「こんにちは」
和夫は嗄れた声で挨拶し、再び小さく頷いた。
「ベッドを起こすわね」
祥子はベッドを起こした。和夫の目線が上昇する。目線が上昇している間も、裕の姿を珍妙な眼差しで、見入った。
「裕君といったね。祥子とはどんな関係なのかい? 職場の後輩かい?」
和夫はゆっくりとした語調だ。ハッとした祥子は振り返り、裕の顔を見た。唐突な和夫の問いに、不安と期待が入り交ざったような、困惑を浮かべ、瞳が朦朧とする。
「えっと、和夫さん初めまして。僕は、祥子さんと結婚を前提にお付き合いしています。そして、近日中には籍を入れようと思います。ご挨拶が遅くなり、申し訳御座いません」
祥子は一瞬だけ目を見開いたが、何事もなかったかのように果物ゼリーの蓋を剥き、スプーンを添えて和夫に渡した。和夫は果物ゼリーを細い指先で受け取った。指先が震え、ゼリーの表面が波立つ。
「祥子。本当なのか?」
「はい。裕君と結婚します」
祥子は俯きながら、冷静に答えた。
「そうか・・・。祥子、素敵な人が見つかって良かったな。祥子には、ワシの介護を頼んでしまい、迷惑をかけてばかりだった。ワシの所為で、婚期を逃してかと思っていて、罪な父親だと思っていたんだ。でも、こうやって結婚することになって、良かった。本当に良かった」
和夫は震えるような声を出し、瞳に涙を浮かべた。うっすらと、笹舟を浮かべたくなるような、透き通った涙だった。
「裕君。君は、とても若く見えるが、こんな祥子を大事にしてくれるかな?」
「はい。勿論です。年の差は、一切関係がありません。僕は今の祥子さんを愛しています」
「ありがとう。ありがとう。今日は、良い話が聞けたよ・・・。すまないけれど、ちょっと一人にしてくれないか。ゼリーを食べて、読書をすることにするよ」
和夫はゼリーの表面をスプーンで掬い、ゆっくりと口に運んだ。瞼を閉じ、歯が抜け落ちた両顎で、何回も咀嚼する。その姿を見届け、裕と祥子は退室した。
部屋を出た二人は、リビングのソファに並んで座った。テーブルの上にはアイス珈琲の結露が生み出す、小さな水溜りが出来き、光を遊泳させていた。
「ねえ。裕君。本当に私と結婚しても良いの?」
「うん。僕は、祥子さんと結婚したい。こんな僕で良かったら、よろしくお願いします」
「嬉しい・・・。今度とも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
裕は言葉と残すと、祥子の肩に手を伸ばし抱き寄せ、口付けをした。祥子は瞼を閉じ、裕の口付けに身体を任せた。
第5章へ続く。
過去の章は、マガジンの保管してあります。
お読み頂き、誠にありがとうございます。
ご意見や感想がありましたら、お願い致します。↓
花子出版 倉岡
いいなと思ったら応援しよう!
