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空海の風景  高野山 金剛峯寺

こんにちは。

空海。

誰もが知る名前ですが、その素性を知る人は少ないと思います。過去の偉人ですから、文献や史跡から推測するしかありません。

司馬遼太郎氏の名著「空海の風景」を読み、空海の生きた道のり、司馬遼太郎氏のフィルターを通して理解しました。

端的に言いますと、葛藤と壮大な人生だったのではないかと、感じました。あくまで、個人的な意見が含まれますので、ご了承下さいませ。

まずは、比叡山で真言宗を開いた最澄との比較です。最澄と同じ時期に生を受け、最澄は天台教学の移入を国が認めており、多額の援助を国や其に準ずる立場から受けて唐へ行きます。(空海西暦744年、最澄西暦766年)
しかし、空海は自力でお金を集めて等にいくしかありません。飛行機や堅牢な船がない時代、多額のお金と時間を要し、両者方の扱いが違います。現代ならば、国会議員の外遊と庶民の旅行くらいの差でしょうか。

壮大さとは2年で培った密教を元に、高野山をお開きになったカリスマ性です。
大学を中退して洞窟に篭ったりと放浪生活。この辺りの七年間は史実での記録がなくよく分からないようです。そのような空海ですが、唐へゆくとなると短時間で多くの後援者を募り、一気に資金を集めていったのです。真言密教の体型を持ち帰るために、経典や密具や法器などなども一緒に持ち帰るという巌のような意識、薄っぺらい言葉を並べていては信頼を得ることは不可能でしょう。肉体から不可思議なオーラがでていたのでしょうか??
正しくカリスマ性。

カリスマ性で資金を集め葛藤を抱きつつ、中国内陸にある長安の近代都市で多くのことを学び、二年弱で帰国。本来予定では二十年の予定でした。
十分の一という短期間で真言密教の全てを学び、和歌山の大木が蔚蔚と茂る高野山を開かれたのです。とんでもない偉人が我々の祖先にいたと思うと、誇らしさもありますが、今の私の不甲斐なさに恐怖を覚えてしまいます。もっともっと研鑽を積まなければ。

歴史の一ページを知るためにも、一読の価値は大いにあります。

空海の風景  司馬遼太郎著


さて、「空海の景色」を読み終え、私は下調べなど一切せずに高野山に登りました。いえ、登ったといっても歩いて行ったわけではありません。自家用車で行きました。

魂までも幽閉されそうなほど濃い山の色を目下に眺めつつ、細い道をくねくねと登って行きます。観光客を乗せた大きなバスと擦れちがうとなると、譲り合う必要があります。

こんな山奥に何があるのだろうか?? と、期待と不安を双肩に乗せてハンドルを握ります。

そして、ようやく高野山に着くと驚きました。眼前には一つの街があったのです。
和歌山の山中なので、小さな寺院があるだけだろうと、考えていたのですが、そんな馬鹿な考えは一気に氷解です。寺院があり、住宅があり、学校があり、お土産屋さんがあり、ガソリンスタンドがあり・・・。人間が生活を営む街です。

誤算でした。高野山に着いたのは、午後二時半。
金剛峯寺にお参りをして帰るつもりでいましたので、高野山の全貌を把握してゆくには時間が足りなすぎます。( ;  ; )
結果、二つしか拝観できませんでした。

その一つはなんと言っても、金剛峯寺。

幾多の観光客が拝観されていましたが、境内は張り詰めた空気が流れていました。


中には幾多の部屋があり、その部屋毎に襖絵が多く描かれています。そして、その襖絵は久々に心が揺さぶられました。
一番が桜が描かれた襖絵で、二番目が楓が描かれた襖絵です。
勝手に順位をつけてすみません・・・。
襖絵は撮影禁止ですので、上記二つの襖絵がどのように素晴らしいのかをお伝えするのは大変難しいものがあります。

が、「侘び寂びを魂に叩き込まれるような感覚」と表現しましょう!! 

記事を書いている今でも、瞼を閉じると浮かび上がってきます。是非是非、拝観されることをお勧めします。

本日の記事はこれくらに・・・

次の記事では、高野山あった不思議体験です。

お読み頂きありがとうございます。



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