『義』 -海水浴- 長編小説
海水浴
大輔が車のハンドルを握り、水平線が輝く海岸線を走る。助手席には健斗が座り、後部座席の真ん中には、咲子が座った。休日の道路は、天草市外からの車も多く、幾分混雑している。もちろん、東京の首都高とは比較にならないほどだ。排気ガスの匂いがなく、窓を開け、三人は海風を堪能した。
海水浴場に着き、車窓から、派手なビーチパラソルが犇めき合う浜辺を見渡した。
「この海水浴場も混んでいるなあ」
大輔は落胆する。
「ねえ、大輔くん、せっかくだし、南下して牛深まで行ってみらんね。きっと、ここより空いているかも知れんよ」
咲子が提案する。
「うしぶか?」
健斗が問い掛ける。
「そう、牛深。牛深は、天草の最南端の街。この車ならすぐさ」
「そこに行こう。さっちゃんは時間大丈夫なの?」
健斗は首を回し、咲子へ問い掛ける。
「うん。連休貰ったけん、明日も休み。久しぶりの連休だけん嬉しかあ」
「そうなんだね。同じ年の俺ら大学生が、こんなに長い休暇を取って、本当に罪深いものだ。許せん。なあ、大輔?」
健斗が大輔を見る。
「あ、うん」
大輔は適当に返事する。大学の現状よりも、貴洋の現状を咲子へ問い掛けたいと思い、独り悶々としていた。暴力を受けて傷を負い、消したい記憶を蘇らせてしまっては咲子が可哀想だが、貴洋の現状が気になる。どこで暮らして、何をしているのだろうか。働いているのだろうか。もしかすると、根も葉もない噂話が、情報過少の田舎の風土によって、歪められてしまったかも知れない。となると、問い掛けても差し支えないだろう。フロントガラスに広がる景色を眺めつつ、時折バックミラーに視線を動かし、咲子を見た。花柄のワンピースを着る咲子には、幼い影が微塵も残っていなかった。
「何、何? 大輔くん、私の顔に何か付いとると?」
咲子が前席のシートとシートの間に顔を出す。大輔は、しまったと焦燥する。
「久しぶりの運転だから、交通ルールを遵守しているだけだよ。後ろも気にしないといけないだろ。東京では、滅多に運転する機会ないからな」
「そっか。東京じゃ、いっつも電車が走っているけん、車は要らんもんねえ。良いなあ、東京」
「ただの西洋かぶれの役人が、傍若無人に近代化させただけの街だよ。もちろん情緒溢れる町並みが残っている場所もあるけれどな。俺は東京生まれ、東京育ちだけど、誇れるものなんて、何にもないもん。それに比べると、天草は良いところだね。自然は綺麗、空気も綺麗、海も綺麗、そして、さっちゃんも綺麗」
健斗は饒舌だった。
「東京の人は口がうまかねえ。二人とも、そうやって、たくさんの女の子を騙してきたとやろ」
「俺は違うぞ、九州男児、寡黙一徹だ。彼女はいない。今のところ、作る気もない」
大輔は断言した。
「俺も違う。江戸っ子、寡黙一徹。彼女はいない。もし、付き合うなら、地方の女の子と付き合ってみたい。異文化交流。さっちゃんは?」
健斗は悪気もなく咲子へ問い掛けた。大輔は再び焦燥したが、聞きたいことを健斗が代弁してくれ、引っかかっていた喉の詰まりが取れたようにも思えた。
「私は・・・」
咲子の声が止まった。大輔は素早くバックミラーを見る。咲子の表情に寂寥はなく、話す順序を模索しているような、困った顔付きだった。車輪が、焼けたアスファルト上を何周か回った時、咲子は口を開いた。大輔はピンクの口紅を塗った咲子の口元を見入った。
「私はね、貴洋と結婚しとった。いや、結婚しとるの。幼馴染の貴洋くん・・・。大輔くんはもちろん覚えとるよね?」
「もちろん。俺らの学年は、男二人だったからね。健斗へも、貴洋くんのことをよく話していた。幼少期に魚釣りに行った話などをね」
「貴洋とはね、高校一年生の時から付き合い初めて、卒業と同時に結婚したと。熊本市内にアパートば借りて、二人で生活しとったと。でも、貴洋は仕事が上手くいかんくて、辞めちゃった。それからは、酒やギャンブル、携帯ゲームに入り浸るごつなって、生活が上手くいかんくなった。私が支えてあげればよかったとばってん、色々あって上手くいかんくなったと。親へ相談したら別居になって、私は逃ぐるごつに天草まで帰ってきたと。貴洋は、まだ市内に住んどるよ。最近は連絡をとっとらん」
「さっちゃんは、貴洋くんとはどうしたいの?」
健斗が問い掛ける。
「わからん」
咲子は明るく答る。
天水が青く、水平線が霞んでいた。三人は真っ白い砂浜に、小さなブルーシートを広げ、道中に買った飲み物や着替えの入った鞄を置く。咲子は麦わら帽子を深く被り、海水パンツを履く男二人を、波が押し寄せる砂浜の景色に描き見た。
「さっちゃんも泳げばいいのに。せっかく海に来たのになあ」
健斗が残念そうに言った。
「水着は恥ずかしかよ。二人で楽しんできなっせ。私は見てるだけで楽しいもん。それに、私は天草に住んどるけん、いつでも来れるったい」
「そっか、ごめんね。行こうぜ」
二人は砂浜に新たな足跡を零しながら、走り出した。
透き通った海水が肉体を舐めてゆく。大輔は久しぶりの遊泳が心地よく、無心で静かな波を切り、沖へ向かった。閉鎖的の大学のトレーニングルームと違い、身体を縦横無尽に動かしても、咎められることはない。ばれなければ、裸になっても良いだろう。妄想を膨らませつつ、大きく息を吸い、水中を覗いた。小さな魚が囚われることなく、優雅に泳いでいる。もしかすると、自然の摂理、輪廻転生には囚われているかも知れないが、人間よりかは自由だろう。魚は魚の『義』を持っているのだろうか。それは分からない。
大輔は水面に浮上し、酸素が希薄になるくらい息を吸い込んだ。久しぶりに、純粋な酸素を吸った気がした。
「おーい」
遠くで男の声が聞こえてくる。誰だろう。
「大輔」
健斗の声だった。大輔は岸へ向かった。
「泳ぐのが上手だな。俺は足がつかない所が怖いんだ」
「子供の頃から、水泳は得意だったからね。全身を使って泳ぐと、気持ちが良いぞ。一緒に沖へ行こう。何かあっても助けてやるからさ」
「怖い、怖い。良いよなあ、運動神経が良い男は。俺なんて、体育はずっと苦手だったし。大輔みたいな肉体に憧れるなあ」
健斗はしみじみと語った。大輔は水滴が輝く健斗の身体を見た。肩幅は狭く、肉がなく、華奢な骨が浮き出していた。吉田の肉体を見慣れていたからか、健斗の肉体が一層脆く貧相に見えてしまった。肉を譲ってあげたいほどだった。
「何、見てんだよ」
健斗は、舐めるように見入る大輔を指摘した。
「悪い、悪い」
大輔は吹き出して、笑った。健斗も釣られて笑った。
二人は泡沫が柔和する渚を歩いた。二人の足元で小魚が動き回った。
「良く見ると、健斗って貴洋くんと似ているなあ。細く華奢なところとか、薄っぺらな顔つきとか、運動が出来ないとこととか」
「へー。さっちゃんに暴力を振るった貴洋くんと似ているのか。それはそれで、ちょっと複雑だなあ」
「外見だけ。性格は違う。いや、違うと思う。もう遠く昔の事だからなあ。貴洋くんは、何をしているんだろうなあ、奥さんのさっちゃんを置き去りにして」
「あんな綺麗な奥さんが居ながら、罪深い男だな。帰ってきたら、蹴りを入れて拷問だな。まあ、大輔の蹴りだけれど」
「何故に俺が?」
「俺は貧弱だからさ。小心者だし」
「よく言うな。東京じゃ、女の子を口説きまくっていたのにさ。金髪でピアスをしていて、小心者なんて、誰も思わないよ」
「大輔のように自信がないから、外見だけでも取り繕っているんだ」
健斗は右手で波を掬い、大輔の背中へ投げ掛けた。大輔の背中で、水が砕け散った。
「俺も健斗も同じような男だよ。ただの大学生。身体がほんの少し、大きいだけ」
大輔も波を救って、投げ掛けた。水の砕ける健斗の後ろ姿が、貴洋に見えたような気がした。幻影なのだろうか。
「さっちゃんの所へ戻ろう。暇しているよ」
健斗は岸へ向かって歩き出した。
「俺は、もう少し泳いでくるよ。さっちゃんと話してきな。さっちゃんも喜ぶだろう」
大輔は沖に向かって歩き出した。
様々な泳法で水面と海中を行き来し、大輔の筋肉は躍動と倦怠を繰り返してゆく。波は間断なく、海に濃淡の筆を加えていた。暫く波に揺られると、倦怠が勝り、大輔は水面に仰向けになり、天を仰いだ。すると、貴洋との懐かしい思い出が蘇ってきた。
続く。
長編小説です。
花子出版 倉岡
文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。