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雲の影を追いかけて 第11章「後半」全14章
第11章「後半」
時計の針が、いつの間にか十時を回っていた。裕は起き上がると、キッチンへ向い、冷蔵庫から牛肉や白滝などの食材を取り出した。本棚から取り出した料理本を眺めながら、慣れない手つきで牛丼を作った。計算したようにご飯が炊き上がり、出来立ての牛丼をリビングのテーブルへと運んだ。
「まあ。とっても良く出来たね。美味しそう」
祥子は嬉しそうに喜んだ。
「料理本を見ながらだから、美味しいかは分からないよ。牛丼屋とは勝手が違い過ぎた。ちょっと煮込み過ぎたかも知れない。まあ、食べてみよう」
「頂きます」
裕と祥子は割り箸を割ってから、牛丼を食べた。
「うん。美味しいわ。こんなに美味しいなんて、毎日牛丼でも良いかも知れないわ」
「ちょっと。それは困るな。僕は十年くらい毎日牛丼を食べ続けたから、祥子さんの手料理をもっと食べたいよ」
「そうよね」
祥子は恥ずかしそうに頬を染める。
「今日は田中さんと喫茶店に行ってくるよ」
「あら、田中さんに会うのは、久しぶりかしら?」
「うん。かれこれ、数ヶ月ぶりかな。同窓会みたいで、とても楽しみだよ」
「いってらっしゃい。ゆっくり楽しんで来てね。私達が出会ったのだって、田中さんが切掛でしょ」
「そうだったね。何かお礼としないとね。何か」
二人は目を合わせ微笑んだ。
牛丼を食べ終え、裕は部屋へ向かった。慣れ親しんだ机に座り、執筆を進め、電話で編集者と今後についての簡単な打ち合わせをした。その最中、昨晩の夏菜子との出来事と、夢の中で青年と交わした会話との二つが、意識の渦中を傍若無人に頭を出しては隠れてゆく。夏菜子の裸体を目の前に、性欲が湧かないといったら嘘になる。実際、下半身は機先を制するように高ぶっていた。しかし、夏菜子の身体に美を感じることが出来ずに、醒めてしまった。それは、夢の中で青年が言葉にした美とは、程遠い存在に思えたからだろう。もし夏菜子の裸体に美を感じていたら、動物のように抱いたのだろうか。いや、恐らく抱いてはいなかっただろう。祥子の身体には夏菜子のように輝かしいものは無いが、青年が言葉にした雲の影のような美が潜んでいる。それは過ぎ去る美、移り行く美、儚い美だ。そのような美を、これまで渇望して生きていた。そして、これからも。青年が自分の感情を分かりやすく言語化してくれたのだろう。軽快にキーボードを叩くと、軽やかな音が部屋に響き渡った。
裕と田中は席に座った。
「久しぶりだね。一年振りかな。引っ張り凧の裕君は、いつの間にか雲の上の存在になってしまって、とても寂しかったよ。でも、こうやって会えるのは、なんだか光栄だなあ。同僚の特権だね」
裕と田中は大衆喫茶店で珈琲を口にした。夜とは違い、客の年齢層が高く、老成した客が鷹揚な姿で新聞を広げていた。
「まだ、半年位ですよ。それに、雲の上って、僕はまだまだひよっこですよ」
裕は苦笑いした。
「いやいや、大物さ」
「牛丼が懐かしいなあ。実は、今朝僕の手作りの牛丼を祥子さんと食べました。お店の味には敵いっこないですね。また機会が有れば、お店で美味しい牛丼を盛りたいな」
「お、良いねー。是非是非、お店に遊びに来てよ。アルバイトの留学生も裕君と会いたがっているよ。そう言えば、僕は牛丼屋の社員になれたよ。一応店長を任されているんだ」
「おめでとう御座います。田中さんは適任ですよ。真面目で、一生懸命ですからね。それに、お客さんにもスタッフにも優しくて」
「ありがとう。頑張るよ。お客さんにはもっと美味しい牛丼を食べて貰いたいからね」
田中は嬉しそうに、薄くなった頭を掻いた。
「祥子さんとの、『年の差婚』は上手くやっているかい?」
「はい。どんな小説にも出てこないような素敵な女性に巡り会えました。田中さんのお陰ですよ」
「有名人に、お礼を言われると何だか不思議な気分だなあ。祥子さんは僕の母親と同じ歳だよね?」
「確か同じだったと思います。もう、還暦を迎えました」
「祥子さんは綺麗だったからね。僕の母さんは、還暦を迎えて格段に老け込んだよ。仕方ないけれどね。自然の摂理・・・。
ねえねえ、裕君は若い女優達と、何かあったりしないの? 前は話していたよね。『話題性で世間の注目を浴びて有名人になる。そして、無努力で本が売れて、富を手にし、若い女優と楽しいひとときを過ごす』ってね」
「はっはっは。僕はそこまで明確に言っていましたかね」
裕は空笑いした。
「言っていたような気がする。勘違いだったかな。なんせ、『世間を騒がす話題性がないと、本は売れないし、有名人にはなれない』とか言って、目が血走っていたからね。懐かしいなあ」
「ああ。確かに、勢い任せで言っていたかも知れないな」
「そうでしょ」
「まあまあ。執筆に専念出来るようになったのは何よりです。それなりの生活を送れていますしね」
「うん。この前に出した本も、とても面白かったよ」
「買って頂きありがとう御座います。僕も何かお礼がしたいな」
「気にしなくていいよ」
「ねえ、渡辺夏菜子に会ってみたいと思いませんか?」
「渡辺夏菜子? 女優の? 大物女優の?」
田中は目を大きく見開き、鼻息が荒くなった。カップに残った珈琲を一気に飲み干し、裕の顔を凝視した。
「そうです。女優の渡辺夏菜子です」
裕は冷静に返した。
「ええ。僕が会えるの?」
「はい。会えます。僕は夏菜子の部屋に行ったことがあります」
「ええ、何々。裕君は堅物のようにいっているけれど、実際は抜かり無いのだね。ちょっと、ちょっと」
田中は裕の横腹を人差し指で突いた。
「そんな関係じゃありませんよ。話の流れで、たまたま夏菜子の部屋に行くことになったのです。今度一緒に行きましょうよ。田中さんの出世祝いも兼ねて」
「僕みたいな一般人が、女優の部屋に行っても良いのかな。僕って小心者だからな。どんな服を着て行こうかな。あ、花束はいるのかな。いやいや、サイン帳が良いかな・・・」
田中は瞳を右往左往させ、ぶつぶつと呟きながら彼是吟味した。裕は田中の姿を見て、恩返しを出来ることを、嬉しく思った。
「僕が夏菜子との日程を調整しますから、追ってメールでご連絡しますね」
「分かった。何としても行くよ。アルバイトを掻き集めて、シフトの穴を何としてでも埋める。でも、渡辺夏菜子さんから
『裕君とはどんな関係ですか?』
と聞かれたら何て答えよう。うーん・・・」
田中は眉間に皺を寄せる。
「『牛丼屋の社員です』と、素直に言えば良いと思います。立派なお仕事されていますからね」
「そうだよね。張り切って答えるよ。小説家と牛丼屋の社員の組み合わせかあ。僕らって、なんだか牛丼みたいだね。文学という秘伝の肉鍋で苦悩する小説家。肉に隠れて表に出ない白米のように、決して大きな名声をあげることはないが社会の潤滑油をして働く牛丼屋の社員。裕君は肉で、僕は白米。我らは、正に牛丼そのものだ」
「田中さん。小説家になれますよ」
「無理無理。僕はお客さんと接客していたいからね。それにしても、夏菜子さんに会えるなんて楽しみだなあ。生きていて良かったあ」
二人の会話は、暫く続いた。
第12章へ続く。
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