見出し画像

英読書会-夏目漱石「こころ」

夏目漱石「こころ」(1914)読書会(2020/7/23)
参加者:英、TAさん、YTさん、YTさん、HTさん、YMさん、SKさん

●これまでの、考えながら書いている感じがする漱石作品とは一線を画している。無駄がない。熟練の仏師が「木を彫って仏像を作るのではなく、すでに木の中にある仏像を掘り出している」みたいな感じ。とても読ませる。名作と言われる所以がすぐに分かってしまう感覚。
●100年前の小説だが、時代は変わっても人の心は不変ということを感じた。
●構成がうまい。最初にミステリアスな先生の様子に「何かが起こりそう」と予感させる投げかけがあり、後半の遺書で一気にノンストップで読ませる。
●距離をとりながらの文体が続き、遺書の文章でたたみかけていく。文体がすばらしい。
●ひたすら「怖い」と思いながら読んだ。自分でも見過ごしている「軽薄さ」をストイックにえぐってくる。
●昔の知人(物書き)より、「とんでもない小説だ」と聞かされていた。今、読んでみて本当にそう思う。読み込みが追いつかない。心の表層的なものと裏側を描いている。
●「私」が「先生」に出会ってからの出来事を書いてはいるが、「先生」が自分の過去を話せる相手(=「私」)と出会ってからの物語ともいえる。鎌倉の海岸で出会ってから、「この人が聞いてくれる人なのでは」と思い続けてきたのかもしれない。最後に彼に手紙で話せたことで、「先生」は救いになったのか。
●「先生」の境遇には、大人になって共感するところも多い。田舎の親戚とのトラブル、人は状況によって悪人になってしまうということなど、自分も大人になると経験する。
●終わり方がうまい。「私」は実父の危篤が近い状況でありながら、遺書を見て「先生」のもとに行くことを決断した。その後彼はどうなったのか?と想像させる。
●登場する人物は、全て「先生」の内面と結びつくものをもっているところが面白い。「私」「K」「お嬢さん」「先生の叔父」など。「先生」という人物から派生したような描き方。(夏目漱石はよく小説に自分自身の境遇をモデルにしたような人物を登場させているので作家自身の分身である人物たちともいえそう)
●「先生」の遺書では彼自身が感じる自分の内面が描かれる(自分のエゴイズムを極限に見つめてしまう)が、周囲の人から見た「先生」の印象はまた別なのではないか。「先生」は「K」に劣等感のようなものを感じているが、「K」もまた「先生」には敵わないという気持ちもあったのではないか。「お嬢さん」も、「K」のほうに味方をしたり気軽に話したりするのも、本命の好きな人(先生)には仲良くするのは恥ずかしいという気持ちからのような気がする。無意識に嫉妬させようというのもあったかも。
●「先生」は「お嬢さん」への愛ゆえに親友の「K」を裏切ってしまったという形にはなるが、実質は「お嬢さん」とは人間としての好意(like)であり、「先生」の本当の愛情は「K」にあるようにも読める。実は同性愛なのかもしれない。その時は社会規範などがあり分からなかったことも、後の人生において気づいてしまったのかもしれない。
●西洋の心理学(フロイト、ユング)の流行は、漱石にも入ってきていたのではないか。
●現代の私たちからすると、個人の罪の意識と、明治の終焉という時代の節目が重なる感覚は理解が難しい。当時の人(男性)には共感できるものがあったのでは。
(英追記:でも以前、東日本大震災の影響を受けて全く別の地域に住んでいた元オウム心理教の指名手配者が出頭したことがあったな…と思い出した。重なるかどうか分からないけど。)
●「先生」と「K」の関係からすれば、「K」に「精神的に向上心がないものはバカだ」という彼自身の主張をたたきつけてしまえば、彼が自殺してしまうことも予想できたのでは。「先生」が内心では敬愛する「K」に、「お嬢さん」との仲を割いて永遠の存在にしてしまうという究極のエゴともいえる。怖いけど、
●同性愛に近いものかもしれないという説と、乃木将軍の明治天皇への殉死に触発された、という意見から、「先生」の自死は、「K」とあの世で一緒になろうという意味にも思える。彼は妻を思いながらも死を選ぶことで「K」を選んだ。「K」に対する殉死といえる。
●漱石は、明治の終わりの時代(=古い封建社会から西洋的自我を意識する個人主義の時代へ)のふしめに生きる人々を繰り返し描いている。どちらが良いとも言わない。ただ苦悩する人たちの姿を描く。「こころ」もそのテーマが色濃く出ている。「淋しい」という言葉が多用され、印象に残る。他人とこころを共有できない近代の個人の「淋しさ」ゆえに死んでしまう人。封建社会では、職業も結婚も決められたことに従って生きて、それは不自由ではあるが、自分で選ぼうという意思すら持たなくてすむ。自由になってしまったから、自分の選択がすべて自分にのしかかってしまう。「先生」も、選択の結果と「K」の死を全て自分のせいとして引き受けてしまったゆえの悲劇。
●妻からしたら、本心を打ち明けないのは「先生」を理解できない寂しさを味わわされていることにもなる。昔の人は女性に苦悩を背負わせたくないという責任感もあっただろうが、ないがしろにしている面もある。それはそれで大変なエゴイズムだが、「先生」の苦悩を思うと責められない。
●「覚悟」という言葉が印象的。「K」の覚悟、その先の「先生」の覚悟。「先生」は、決して妻には言うまいという「覚悟」で生きていた。死者のことを思い、彼の孤独へとしだいにシンクロしていく人生。
●「K」の自殺はお嬢さんへの恋を親友の「先生」に裏切られ閉ざされたためというより、自分の唯一の理解者だと思っていた親友の「先生」と分かり合えないと気づいてしまった絶望からかもしれない。2人とも、親戚とは絶縁状態にある、「淋しい個人」。「K」の、「死のうと思っていたが今日まで生き続けてしまった」という遺書の言葉。神経症気味で、なにかのはずみに死を選んでしまってもおかしくなかった「K」をこの世につなぎ止めていたのは「先生」の存在で、「先生」はその後長い時間をかけて「K」の孤独を追いかけて生きていて、ついに彼の後追い自殺を果たしたという物語なのだと見ると切なさが。
●「K」とからんで出てくる仏教関係のエピソード(真宗の寺の出身、日蓮のことを聞いたなど)は気になる。漱石と仏教は関係がありそうなので調べたい。
●なぜこれが高校の教科書に載り続けているのか。若者の過ちの物語。しかし大人になって分かることもある。それは、若い時に「読んだことがある」からこそ理解できるのかもしれない。
●高校生のころに読んだので「読んだことある」と思っていた「こころ」ですが、再度、夏目漱石読書会の文脈で読めてよかったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?