たちのぼる
どの媒体(メディア)がすきか、と問われると「映画」だととっさに思う。名作を知っていることや、映画の内容を語り合いたいとかとは全く別の次元(もちろんそれもしたい)で、わたしは映画という「媒体」がただ好きだからだ。(ジャンルとしての)映画好きといえるのかはよくわからないのだが、媒体としての映画は愛してやまないと胸を張って言える。
体験としての映画が好きだから、お金を払おうと思う。できればおもしろくて熱くなれるものがいいけど、わりとどうでもよくて、それはなぜかというと、映像を追いかけることそのものが好きだからだ。アトラクション性を楽しんでいるので、仮に話が(個人的に)おもしろくなかったとしてもだいたいは満足する。といっても、内容が体に(本能的に)あわなくて腹が立つことはあるし、無意識的にも意識的にも観るものはもちろん選んでいる。
とはいえ、映画をよく観るようになったのはバイトをしたりして、自分でお金を稼ぐようになってからだ。それまでの名作やシリーズは、今になってみているものの方が多い(し、間に合っていない)。自由にできるお金を手にしたから、というのはたぶん建前で、ほんとうは「アナと雪の女王」の、氷の城が立ち上がるシーンにどうにかなってしまったのだと思う。映画と建物の親和性を気に入ったのだろう。
建物を舐めまわすように撮ったり、建物のなかを鳥みたいに横切ったり、建物は映画の中で「絶対に知り得ない」姿を見せる。それがたまたま、よくハマったのだ。ほかの映像媒体にもそういうところはあるけれど、映画館で見るそれは格別だったし、今もそうだ。気に入って覚えている映画のほとんどに、好きな建造物、好きな画(シーン)がある。
そして内容自体はほとんど忘れてしまうので、何回も見た作品ならともかく、それ以外はめちゃくちゃ好きな作品でもひと月もするとよく思い出せない。コスパが悪くて悲しいけどもう一回見た時にたのしいから……たぶん、と思う。内容を覚えてることとすきなことはべつに関連しないし、すきだと思ったらすきだよ、というだけなのだ。そういうことにしておいて欲しい。
ところで、わたしのなかの大きな欲求のひとつに、「映画のように小説をかきたい」というのがある。この流れでたぶんわかると思うけれど、話が面白いこと以上に、脳内で流れている映像を余すことなく描けるようになりたい、ということだ。「表現の媒体」に小説を選んだのは、映画をすきになるよりかなり前のことだけれど、当時から無意識にそう思っていたと思う。
そもそもわたしは、文章のことをかなり映像でとらえる。小説も、詩も、短歌も、好きだと思うとき、そのとき言葉は脳内で映像になっている。映像が立ちのぼってくるとき、わたしはアナ雪のあのシーンを見た時と同じになる。「言葉」の限界に挑戦する作品ももちろん読むが、それすらも映像になっていることがしばしばある。
漫画とかそれより映像に近いものもやってみたいなと思ったことはあるけど、どれもあまりうまくいかなかった。というより続かなかった。忍耐力の問題なのかもな…とうっすら思わないわけではないが、その背景は「脳内の映像に敵わなかった」からなのだろう。
小説が敵っているわけではなくて、同じ土俵で勝負すると「敵わない」とすぐにわかってしまうということだ。まあ、昔の小説をみるとちゃんちゃらおかしい表現があったりするし、いまも満足できないのだが、少なくとも同じ土俵ではないので、脳内の映像に泥をぬらないで実験ができる。泥をぬるのを嫌がる性格なので、たぶんそれが良かったのだと思う。
そういう営みはカメラを持つのにも似ている。このアングルならどうかなとか、もっといい表し方がないかなとか。ときに、目の前の役者に文句を言うこともあるかもしれない。そういう実験としての小説が好きだなと思う。きょうの気づき。
ほんとうは続きに意気込みのような何かを書こうと思ったのですが、自我がきれいに収めようとしてくるのが(端的にいうと)いやなのでやめておきます。おやすみなさい。