ある哲学。
断崖絶壁を選んで咲いた花を見て、わざわざそんなところを選ばなくてもと思うのは、自由。しかしなぜ、その場所を選んで咲いたのかは、花にしかわからない。
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人は鏡。
私たちは鏡になることがある。そこに諦観を見出すなら諦観が跳ね返る。非常に単純なことだ。他のものを返すなら、鏡と形容された関係性にヒビが入り、壊れたらもう、何も映らない。他者の諦観がいかに生きる上で狂おしいものに見えても、その諦観があることで生き永らえるならば、その諦観に折り合いをつけた諦観を返す。それは、鏡と形容された関係性がそこに在り続ける、最も自然な形。摂理。変えられないルール。
過去の痛みを映してしまえば否が応でも、自身が蓋をしていた過去の痛みが共鳴し、疼く。置きどころのない痛みを、傷を、互いに見せ合いながら、共有する憂いが先々を照らす灯かりになるようにと、鏡に映らないところで、祈るしかない。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。
この言葉を遺したかの有名な操縦士は、孤独に飛び続けて行方不明になった。鏡を見つめ続け、自己を見つめ続け、ともに同じ方向を見つめることが愛だと、いかようにして知り得たのだろうか。孤独というより孤高という言葉のほうが似合う人だったのかもしれないが、その人と同じ方向を見ていた人がいたのか、いたとすればどんな人だったのか。私にはそんなことを知る由もないのだが、孤独に飛び続けることを選ぶ愛する人を、どんな目で見つめ返したのか知りたい。
相手に自己が映し出され、鏡という境界を超えることではなく、鏡を覗き込むのをやめて、上空を見やり、『空を目指そうよ』と語り合うことが、愛し合うということなのだろうか。
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海から、巡り巡って雨という、慈しみを贈る。
交わらない木と木は、互いに支え合い、空を目指して背を伸ばし、いつか森になる。
森は生命の営みという永久に終わらないうつろいの途中で、葉を落とす。
私たちが生きる中で、時に見つめ合い、鏡に映るものを語らい、言の葉を落としては拾い合い、燃やして、燃やして、諦観も寂寥も影も形もなくなるまで煙と灰にしてしまって、それでもまだ足らずに、上へ上へと目指し続けた雲の先に、何があるのか。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。
この言葉を遺したあなたは、雲の先で、見つけただろうか。その “愛” の先には、“シアワセ” があるのかどうかを。
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断崖絶壁を選んで咲いた花を見て、わざわざそんなところを選ばなくてもと思うのは、自由。しかしなぜ、その場所を選んで咲いたのかは、花にしかわからない。そこで懸命に生きる姿を見たなら、決してその世界が愛には見えずとも、花は、幸せなのかもしれない。美しく咲けなくとも、幸せならば、その場所を変えてやろうという、人の愚かな情けは、愛ではない。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。
花の場所を変えてやらない私を、人はひどいと言うだろう。何も知らない、思慮の浅い輩を黙らせるだけの易しい言い訳は、今のところどこにもないから、あなたがそこで孤独に咲くことを選ぶのなら、私もここで独り、“愛に見える偽物” から、あなたを守ることを選ぶ。
断崖絶壁からの景色を見てみるよ。例えそこが、居心地の悪い景色であっても。逃げ出したくなるような場所であったとしても。
“わかりたい” 氣持ちだけは置いていかせて。それができたら十分だから。あとは咲きたいだけ、咲いたらいい。
これが私の、精一杯の愛。
こうして言の葉を束ねる夜も、いつか煙と灰になる。戯言のようなこんな、独り抱える、愛についての哲学のことも。
孤高の花は知る由もなく、大空を飛ぶ、夢を見る。
hana 言葉の海