ベンベンベン図と言いながら紐解く愛は言葉に綻び
言葉のレベルってことをこの頃よく考えます。
言葉自体の、強さの違いというか。
自分が認識している言葉の強さと
世間でよく言われている言葉の強さのレベル
この二つがかなり違うってことがよくあるような気がしていて
あ、もしかして? と思うことが相次いでいるからというのがきっかけです。
もしかしてそんなに深刻な意味でこの言葉使ってない? まじで? とか
もしかしてこの言葉にこの意味も載せて聞こえてる? やべぇ、とか
そういうやつです。
例としては
え? 絶望ってそんなに気軽につかっていいことばなの?
望みが少しでもあったら絶望じゃないとかじゃなくて?
……そっか確かに「絶望」を弱めた言葉って存在しない!?
絶念だとたしかに自分で気持ちをあきらめる感じだし
失望だと確かに相手がまだそこに立っている感じだし
「自分に失望した」っていうと明確な望みがあるときのような語感。
完全な絶望じゃなくても「絶望」という言葉でしか表せないなら表していいのか!
とか
「もうきょうわたしメロメロ…もうだめ…」っていったら
なに? 誰にメロメロだって?
って返されて
いや、体調がデロデロでめためたで……って言ったら驚かれて
メロメロは恋愛などに紐つけられて考えられる言葉だったのか!と驚いた
とかですな。
これらだけじゃなくて、最近こういうのがわたしの中で頻発してるんですよ。
昨日の投稿の「安売りっていろいろあるやん!」も広義では同じですね
「安売り」って言ってもいろいろある。
言葉の定義というのはどうしても個人個人の中で理解されて使われるもののため
どうしてもその意味の厳密な切り分けを共通の認識とすることは不可能に思えます
だからこそ、個人個人の発する単語は、音や字的には同じ単語だとしても
その含む意味合いは決して完全に同一のものとなることはなく
各々勝手に自分の語解釈でその単語、そしてそれが連なる文章を理解するのよね
重なってることもあれば
もしかしたら全く重ならないこともあるし
自分よりももっと広い意味や小さい意味をその言葉にこめていることもあるし
意味の含め方なんて、広さや狭さだけじゃなくて深さや濃さなんてのもあるから
人の言っていることは、その人にしか正確な意味がわからないものなのです
なんということなんでしょうね
それが、生き物としての運命・宿命なんでしょうけれども
分離して独立したことの悲しみそのものなのでしょう
自分が伝えたいこと、そのイメージ
その、正確な中身と、思っていること
それら伝えるためには、そんな不確かな道具である、抽象でしかない
「言葉」
その「言葉」というものしか道具がないなんて。
不自由極まりないし、孤独そのものだし
その事実自体が絶望そのものですらあります
だから、言葉を尽くして人に伝えたり
一生懸命説明をしたり
疑問を持ったら問うたりすることで
人は人をきちんと「対等に」扱うことになり得るんですよね
決して完全には理解することができないということを前提とした
「あなたのことを完全に理解はできない、だから知りたいし、問う」という姿勢が
その姿勢自体が非常に重要なものとなってくるのです。
あなたの語る単語のひとつひとつの隅々までをすりあわすことはできないから
だからこそ、言葉を尽くしたり観察したり問うたりしてA∩Bを探していくんです
(A∪Bでもイイけどこっちの方が難易度高い)(突然の数学)(理系の悪いとこ)
何が言いたいのか、を知るために。
あれ、procreateで作ったんだけどなんか歪んどるw
どうでもイイけど∪(カップ)とか∩(キャップ)とか可愛いよね
相手の言葉、何を言おうとしているのかを聞き取ろう、わかろうとすること
それが、最低限の愛と敬意なんじゃないかと、子育てしてたら思ったのですよ。
わたしたち、ママンズは子供たちといる時、多分
あいつらが何を言おうとしてるのかをずっとずっと、真剣に考えてる。
神経を子らに向けて、イタズラしたくなってないだろうかとかアンテナ貼って
注目を、捧げている。
それを、愛というのかもしれないな、って。
注目してくれるとしてもストーカーとかになってしまうと愛と呼べるのかどうかわからなくなるのは「こちらの言いたいことを聞こうとしてくれるわけじゃない」から。こちらの意思を、存在を、気持ちを、行動を知ろうとしてくれること、それを、愛と呼ぶんじゃないかなと、思ったのです。
だから
相手の言いたいことをちゃんと、わかろうと知ろうとしてくれる人というのは
最低限の敬意と愛を他人に対して持っているということで
(ビジネスにおいてそれをするのはある意味「愛の応用」なのかもしれない)
きちんと愛を発現できる人間であることの表れで
それができることって、思ってる以上に難しくて大切なことなのかもしれないと
最近、めちゃくちゃ強く思うようになっているわけです。
「あなたの【大切にする】と、わたしのそれがあんまりにかけ離れていているからもう恋愛関係は続けられないよ」
恋人にそうやって別れを切り出したことがあります。
あんまりにも、「大切にする」という言葉の概念が違いすぎてお互いで苦しくなってしまった恋でした。
たくさん、たくさん、話し合ったけど結局そこが噛み合うことはなくて、泣く泣く別れを選んだのですけれども、あれほど遠い「大切」なのだとしたら、それぞれ自分のやり方を理解してくれる人と添った方が良いだろうと決断をした形でした。
でも、彼はそこで話し合いをしてくれるだけ、できるだけ、愛に溢れたイイ人だったんだろうな、って今なら思うことができます。いや、もうほんとわたしにはあの人は無理だけど、うん、後悔はないですね。
今、目の前にいる人のことば
どれだけ理解しようとして聞いていますか?
そんなの当たり前だよ、って言えるのならイイのですけれども
それが当たり前じゃなくて、困難な人も世の中にはいるんだよね。
あんまりそういうの、知らなかったなって、ね。
わたしの見ている世界と、あなたの見ている世界
それはどうやったって「重なる」ことはあっても「一致する」ことは、ないのです
知りたい、教えて。
話させて? すり合わせようよ。
あなたの目には、世界はどう、映っているの?
わたしを「有る」ものにするための、重要な、カギのような、気持ちです。
ああ、この絶望は、背負い続けるには、重すぎる。
息を吹き返すために不確かな「言葉」というものをこねくり回す
そんな、今日という日の、わたしなのでした
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