息子が運動会を休んだ
悔しい。
切ない。
つらい。
何を、誰を責めたらいいのかもわからない。
わからないから、押し殺すしかない。
やり場の無いこの感情を、一体どうしたらいい。
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およそ1ヶ月前。
息子の保育園で、運動会の練習が始まった。
練習と言っても、準備体操、かけっこ、親子ダンス、この3つが主らしい。
ちなみに昨年の運動会は、準備体操をしている息子を一眼レフで撮りながら、ファインダーがビショビショになるほど嗚咽しながら号泣し、周囲の視線をどうやら独り占めしてしまったらしい私だ。
ある日の連絡帳に、「今年は泣かないようにしたい」と書いた。
翌日、「バスタオル必須ですよ!」と、返ってきた。
必要ありません!とは、言えなかった。
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日に日に、息子は音楽と踊りを覚えて帰ってくる。
歌やダンスが大好きな息子。
頼みもしないのに、ネタバレも気にせず、自分でBGMらしきものを口ずさみながら、ダンスを披露してくれる。
歩きながら、「よーい、どん!」と自分で合図して駆けていく頻度も、次第に上がっていく。
迎えに行くたび、先生たちから声をかけられる。
「息子くん、本当に楽しそうなんですよ!」
「一番前で、張り切って踊ってくれるんです!」
「練習の時は別人のようですよ!」
「本番、楽しみにしていてくださいね!」
実際、1週間と少し前のリハーサルの日。
朝、いつもダラダラ準備する息子が、「今日はリハーサルだから早く行こうね!」と言うと、いつもより随分早く身支度をした。
先生にも、早いねと褒められた。
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本番を週末に控えた月曜日。
保育園で熱が出た。
迎えに行くほどではなかったが、37.5℃くらいの、微熱。
ちょうど、いつも出ている鼻水が少しひどくなってきていた。
だから、またいつもの体調不良かと、少しため息をつきながら、翌日の仕事を休みにして病院に連れて行った。
初めて、中耳炎気味だと診断された。
慣れない抗生物質を、帰ってすぐ飲み、そのまま下の子の皮膚科に同行させた。
熱はほぼ無いくらいだった。
帰りの車内で、嘔吐した。
それ自体は、さほど珍しくもなかった。
アレルギーなのかどうか原因はまだ掴めていないが、年がら年中、大なり小なり鼻水を出している息子。
アレルギー用の薬を常飲し、毎日鼻吸い機で鼻を吸っている。
少し鼻水が激しくなると、鼻水が喉に流れて咳き込み、咳と共に吐いてしまうことが、最近は減ってはきたものの、稀にある。
ただ今回がいつもと違うのは、咳き込みがなかったこと。
その前に、「お腹が痛い」「気持ちが悪い」と訴えていたこと。
抗生物質が、お腹に副作用があるということは、薬剤師からも聞いていた。
やはり、影響したか。
かわいそうに思い、その後は普通だったが、翌日の水曜日も、保育園は休ませることにした。
ちょうど園ではマイコプラズマ肺炎が出たとかなんとか言っている。
無理して登園して、そんなものもらった日には、週末の運動会は絶望的だ。
その意味でも、念には念を。
実家の協力も得ながら、妻が頑張って2人を見た。
しかし。
その後、木曜も、金曜も、休むことになる。
大袈裟な症状があるわけではなかった。
あれ以降、吐いてもいない。
ただ、何かがいつもと違った。
急にハイになったり、そうかと思えばおとなしくなり、普段なら絶対にないソファーで寝落ちみたいなことをする。
熱もないが、何か、親の直感というのか。
何かが、おかしいと告げていた。
妻は大変だったが、なんとか登園させずに金曜日を終えた。
翌日の土曜日は本番の日だ。
天気予報では、この時期珍しい台風の影響で、雨風が降り続くと言っていた。
雨天延期の場合、日曜になる。
これで、土曜まで自宅で大人しくさせていれば、確実に体調は復活するはず。
経過を見せるよう言われていたため、金曜の夕方、再度病院に行き、耳の調子を見てもらった。
これ以上ないほど、万全な準備を整えた。
あとは本番を迎え、今年もカメラを涙で濡らすだけだ。
そのはずだった。
土曜の朝。
息子は、盛大に嘔吐した。
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慌てて病院を予約し、駆け込んだ。
吐いてスッキリしたのか、息子はいつもどおりの元気そうな様子だ。
待合室でも、好きなジョージの絵本を読めとせがんでくる。
診察室に呼ばれ、連日見る顔を見て、先生は、なんとも言えない顔をした。
経緯を説明し、一応、と言いながら検査に回される。
少し待って、再度診察室に呼ばれる。
検査キットを見せられる。
うっすら。
うっっっすら、見えるか見えないかくらいの線が出ているのを、先生は敢えて私に気付かせる。
その線は、ノロウイルスを示す、線だった。
私は、恐る恐る、尋ねた。
「これは、どうなんですか。」
「明日は、運動会なんです…」
先生は、少し顔を背ける。
「出ても良いとは…言えないですね…」
私は、聴診器をあてるために抱っこしていた息子を、頭を撫でるようにして、思わず強く抱きしめた。
「そ…そうですか…」
そんな、言葉しか、出ない。
息子は、静かにしていた。
整腸剤だけ処方され、家路につく。
妻に、伝えなければならない。
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妻は、予想通り、落胆した。
なぜ、どうにかならないのか、明日はどうなる。
そんな、動揺が口から出ているような言葉を並べる。
私は、運動会当日に連絡されては迷惑だろうと、保育園に休みの連絡をすべきだと思った。
できなかった。
まだ信じられない、信じたくない思いもある。
これから明日にかけて、もし息子が快方に向かえば、しれっと参加させても誰も何も気付かないかもしれない。
こんなに普通の様子なのだから。
ノロだと言ってしまえば、もう、明日の休みは決定的になる。
今日吐いているものの、最初に吐いた火曜から実はノロだったのだとすれば、もう相当な日数が経過している。
もう回復は目の前のはずだ。
どうにかなるんじゃないか。
とりあえず決心できず、私は、観に来る予定だった実家の親に連絡することにした。
私は、比較的淡々と、事実と状況、そして詫びを伝えた。
親は残念がっていたが、とにかく体調を心配してくれた。
…やっぱり、言うしかない。
明日参加してしまえば、水曜まで経過を見ろと言われたのに火曜日休めなくなってしまう。
また、万が一ノロが拡がってしまったら、大問題だ。
しかも、ダメだと言った病院の先生の顔にも泥を塗ることになる。
私は、できるだけ冷静に、保育園の電話番号を押した。
出たのは、園長先生だった。
私は、「電話したくなかったのですが」と前置きをして、経緯と、明日の運動会を欠席する説明をした。
園長先生は、「そうですか…」と言いながら、「残念です」と仰った。
私は、「そうですね」と言った。
本人も楽しみにしていましたし、我々も本当に楽しみにしていたので。
…という言葉は、上手く出なかった。
代わりに、自分の涙声みたいなものが出た。
言葉にならなかった。
30秒ほど、鼻を啜ることと、目の当たりに手を当てることしか出来なかった。
そんな私を、電話の向こうの園長先生は、待っていてくれた。
「嫌なご連絡をしてくださり、ありがとうございます」
「息子くんには、また機会があります」
「どうか、親御さんも、あまり力を落とされずにいただければと思います。」
優しい園長先生の言葉。
「ありがとうございます」
と、とりあえず答えた。
「明日、天気に恵まれ、皆さんが心から楽しめますように、お祈りしております。」
言葉を絞り出し、電話を切った。
お昼ご飯の準備は、出来そうになかった。
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息子に伝えた。
泣きながらになってしまったが、ちゃんと、説明した。
3歳の聞かん坊だが、話はよく理解してくれる子だ。
「明日は運動会だけどね」
「おなかにばい菌がいて、悪さをしてるの」
「だから、明日は、お休みしなきゃいけないの」
息子は、分かっているのかいないのか。
「うん」とだけ、言った。
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園長先生は、次の機会がある、と言ってくれた。
それは確かにそうだろう。
これからも、運動会は年に一回やってくる。
それを否定するつもりはない。
しかし。
今の息子は、今にしか居ない。
今年の、今の、3歳3ヶ月の息子による運動会は、この1回しかない。
楽しそうに見せてくれたあのダンスを、本番で踊る息子を見ることは、金輪際、無い。
あんなにいろんな先生から褒められていた練習の成果を、観てあげられない。
きっと一生懸命に駆け抜ける、一直線のかけっこを観ることも、できない。
そう思うと、悔しく、辛く、「無念」としか表現しがたい感情になる。
今でも、どのルートを辿っていたらよかったのか、考えてしまう。
大袈裟な…と思うだろう。
私も、自分でそう思う。
しかし、それほどに我々は、今日という日を心待ちにしていた。
そのために、妻は必死にワンオペ育児をした。
私は何度も何度も病院に連れて行って万全を期した。
それでも、ダメだった。
何週間もある週末の、よりにもよってこの週に、心当たりのないノロウイルスで、ダメになった。
事故とか、不幸とか。
そういうものも、こういう感じなのかもしれないと、思った。
なんでこここまで、たまたまが重なり合わなきゃいけないのか。
少しだけ、何かがズレていれば、こんなことにはならなかったのに。
なんでわざわざ、このタイミングで…。
言ってみても、仕方がない。
また来年もある。
また別のイベントもある。
そうやって、なんとか、飲み込むしかない。
その日までまた、息子を息子らしく、一生懸命に育てるしかない。
とりあえず、息子が行きたいところにでも、連れて行ってあげよう。
ちゃんと元気になってから。
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今日は本番の日だった。
昨日までの大雨が嘘のような。
雲ひとつない、気持ちのよい快晴。