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ウチの子、普通なのでしょうか

3歳4ヶ月の男の子です。

朝起きて、私がメガネを掛けようとすると癇癪を起こします。
自分で手に取って渡さなければ気が済まないからです。

エアコンや空気清浄機を、勝手に消すと癇癪を起こします。
どうしても自分が消したいからです。

私がトイレから出て手を洗うと、癇癪を起こし、「最初からやり直せ」と泣き叫びます。
自分が一部始終を見守りたいからです。

トーストの上のチーズが破れると、癇癪です。
無理やりくっつけると、一応おさまります。
その後すぐにトーストが切られていないと怒ります。

保育園に預けるまで、常に癇癪を起こしています。
車のエンジンを自分が切りたかった、だったり。
車からCDを持って来たかった、だったり。
自分がタオルを準備するんだ、だったり。
保育園に行きたくない、だったり。

保育園に預ける時も、迎えに行く時も、全てのことにワガママを言って何十分と時間がかかります。
帰る時なんか、1時間半とかかかる時もあります。

迎えは妻がしますが、帰って来ても手も洗わないし、ジャンバーも脱がないし、リュックも下ろさないし、靴下も脱がないし、鼻水も取らせてくれないようです。
「お父さんじゃなきゃイヤ」だからだそうです。

ティッシュで鼻水を取ると癇癪を起こします。
ティッシュと手口拭き両方で取らないとイヤだそうです。

本人の要求でご飯にふりかけをかけていると、癇癪を起こします。
スプーンのお米を落としてからじゃないとイヤだったようです。
あと、ふりかける量や順番が気に入らなかったようです。
鰹節と、かつおふりかけと、子ども用ふりかけと、青のりと、刻み海苔と、粉チーズをかけさせられます。
そうしないと納得しないからです。

食後にお菓子を食べたいと駄々をこねるので、お皿と共に用意さえあげると、癇癪を起こします。
自分でお皿を取らないと気が済まないからです。

本人が食べている間、私が他の家事をしようとすると癇癪を起こします。
食べている間は横に居てほしいからです。
おかげで何も進みません。
時間だけが無為に過ぎていきます。

お米を炊こうとして、お釜に米を入れると、駆け寄って来ながら癇癪を起こします。
自分が米を釜に入れたかったからです。

ピタゴラスイッチのとある回を、お父さんと一緒に見てからじゃないとお風呂に入らないそうです。
どうしようもないのでグッと堪えて見終わって、今度こそ入ろうとすると結局、癇癪を起こします。
トトロも見たいからです。

寝る前の、飲み物のルーティン(お茶、ハチミツ舐め、お薬、牛乳、アクアライトの順)がありますが、ハチミツを舐め忘れたことに後で気付き、癇癪を起こします。
舐めたかったと。
舐めさせたら、もう一度最初から全て飲み直さないと癇癪はおさまりません。

寝る時には、決まった本やぬいぐるみを寝室に持って行かないといけません。
もし忘れたものがあれば、気付き次第、癇癪です。
寝るどころではありません。
仕方なく、もう一度取りに戻ります。

・・・・

ダメですね、相当書きましたが、とても書き切れません。
全ての行動が、癇癪とワガママと隣り合わせです。

普通なのでしょうか。

これは、普通なのでしょうか。

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私はよく怒ります。

基本的には、本人の意思を尊重したいので、待ちます。
今までのイヤイヤ期でも、ずっと歯を食いしばって、本人の気が済むのを待ってきました。
しかし、どれだけ待っても、どれだけ声掛けても、どうしようもない、何も動かないようだと、次第に強く言ってしまいます。

もちろん、良くないと思っています。
最近は以前にも増してかなり癇癪が強くなって来ていたので、怒る度合いも上がっていました。
だから、「怒らないキャンペーン」を開催してみました。

大きな声は出さず、落ち着いた声で話します。
一旦否定してしまうと、その後こちらが折れて要求を飲んだ時に、「ダダをこねれば言うことを聞いてくれる」と思われてしまうので、初手で否定しないように気をつけるようにしました。

恐ろしいほどの忍耐力を必要とします。

その代わり、どうしても譲れない一線は、どれだけ泣き喚いても、要求を飲まないことにしました。

すると、「イヤだああああああ」の時間がとてもとても長くなりました。

先日のこと。
スーパーのレジを通ったあと、帰ろうとすると「帰るのがイヤだ」とダダをこねました。
泣き喚きながら、「買い物をもう一度最初からやり直したい」と。

お昼ご飯の時間が迫っていた下の子(1歳)のために、妻には先に歩いて帰らせました。
歩いて帰れる場所だったことが幸いでした。

さて、一生懸命に、言い聞かせます。
「一度買ったら、戻せないんだよ」
「袋に詰める台に戻ることはできるけど、それより前には戻れないんだよ」
「最初からやり直すことができないこともあるんだよ」
「はやく帰って、さっき買った好きなおにぎりを食べようよ」

怒鳴り散らして、有無を言わさず首根っこを引っ掴んで、無理矢理にでも車にぶち込みたい気持ちを、歯を食いしばって抑えます。
恐怖と暴力で押さえつけても、本人のフラストレーションは溜まるばかりで、次の機会に結局また同じことになると思うからです。

泣き始めて何十分経ったでしょうか。
少し開けた場所に2人、立ちすくんでいました。
私はもはや、10秒ごとに「帰ろうよ」と言う機械みたいな状態で、本人の納得がいく瞬間を、心を無にしながら待っていました。

すると突然、右側後方から60歳くらいの男性が私の顔を覗き込んできて、こう言いました。

「周りの迷惑になるから、別の場所に行ってからやれよ」

私は、あまりにも突然のことに、呆気に取られてしまいました。
開いた口で、去っていく初老の男性を見送ることしかできませんでした。
奥さんであろう女性が、息子の頭をクシャクシャっと撫でて、後を追っていきました。

説明のできない感情がふつふつと湧いて来ました。
怒りなのか。
絶望感なのか。
悲しみなのか。
どれともつかない、ただし黒い感情が、涙になりそうで、とにかく抑えました。
何か言うべきだったような気もするし、何も言えなくてよかったような気もしました。
今思うと、「悔しい」が一番近い気もします。

こっちがどんな気持ちで、こんな手に負えない子の相手を、自分を噛み殺して見守っているか、知らないくせに。
別にずっと隣に居るわけでもない、ただ通りすぎるだけの人間に、なんでそんなことを言われなきゃいけないんだ。

そういう感じの言葉が、頭の中でリフレインしながら、行き場を無くして少しずつ、開いたままの口から抜けて消えていきました。

一言、呟きました。
「私たち、迷惑なんだってさ…」
息子は、何かを感じ取ったのか、一時的に泣き止んで、俯いていました。

確かに、子どもの泣き声というのは、不快だと思います。
それでなくてもうちの子は声がかなり大きいほうなので、尚更でしょう。
公共の空間です。
私がどれだけ自分を殺していようと。
私がどれだけ辛さに耐えていようと。
過ぎゆく人たちには何の関係もありません。
ただの、「子どもを延々と泣かせ続けている父親」。
ですから、「周りの迷惑」と言われれば、返せる言葉は、ありません。

あるとすれば、お詫びの言葉だけでしょう。
しかし、その一言は、その時の私にはあまりにも重たい一言でした。

時間が随分経過していたこともあってか、次第にトーンダウンしてきた息子は、それからしばらくイヤイヤ言っていましたが、最終的には「帰ろう?」に対して「…うん」と頷いてくれました。

車に乗るまでには、別のワガママによって、駐車場を2往復する必要がありましたが…。

結局。
私と息子が家に帰り、お昼に食べるはずだった弁当類を食べた時には、もう15時を回っていました。

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なんなのでしょうか。

これは、普通なのでしょうか。

世間の、親という親は、これほどまでに苦しく過酷な子育てをしているのでしょうか。

別に、普通だったら安心するわけでもありません。
普通じゃなかったら納得するわけでもありません。
ただ苦しさを言いたかっただけです。
ただ投げかけたかっただけです。
答えが欲しいわけではないんです。

それでなくとも、実は、私の希望は叶えられているのです。
以前もどこかに書いたかもしれません。
私は、「自分の意思を持たせてあげたい」と思っています。

私は、いわゆる「優等生」な子どもでした。
どうしてそうなったのかは、自分のことながら未だにわかりません。
「これがしたい」「あれがほしい」
そういうことは、あまり言わない子どもでした。
真面目で、周りに気を遣える、優しい子。
周囲からは、「いい子だねぇ」みたいなことをよく言われたほうだと思います。
でも、「自分が本当にしたいこと」を、よくわかっていない子でもありました。
「周りがどうしてほしいか」を第一に考えるあまり、「自分がどうしたいか」を考えることがとても苦手でした。
今も、基本的に「何をすべきか」を優先して考える癖がついています。

それも、悪いことではないのでしょう。
でも、私は子どもたちに、「自分がどうしたいか」をちゃんと認識できる子になってほしいと思います。
その次に、「周りがどう思うか」を考えて欲しい。
自分に鈍感な子に、なってほしくない。
自分の素直な感覚を、大切にしてほしい。
子どもを授かった時、そう思いました。

まさに今。
きっと、そうなっているのでしょう。
「自分がどうしたいか」
これほどまでにきちんと主張できることは、私の望んだものだったのかもしれません。

だから、きっと私は、理不尽なことを言っているのだと思います。
望んだくせに、実際にそうなると、勘弁して欲しいと願っている。

私は、よくない父親なのかもしれない。

そう思うと、どうしたらいいのか、本当にわからなくなります。

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先ほどのスーパーでの出来事のように、毎日がお休みなら、いくらでも待ちます。
イライラは募りますが、きっとこんなに怒鳴り散らしたり、服を引っ張って無理矢理動かしたりすることも、しなくて済むと思います。
断言はできませんが…。

でも、そうもいきません。
私にも仕事があります。
子どもに対する責任だけでなく、社会的な責任を負っています。
子どもの、濁流が押し寄せるようなワガママのせいで、私は抵抗虚しく押し流されます。
結果、私は何度も何度も、頭を下げます。
先生に。
職場に。
あの理解してもらえてなさそうな視線を、上司から向けられながら。

それでなくとも少ない時間が、さらに削られ、仕事が瓦礫のように溜まります。

「保育室に入るだけ」
「テレビを切るだけ」
「ご飯を食べるだけ」
「手を拭くだけ」

あらゆる「それだけのこと」をやってもらえない。
これまでに何度「早くして!!!!!」と叫んだかわかりません。
「お願いだから!!!!」と。
時には「ふざけるなよ!?!?!!」と。

この、叫びたくなるような「焦り」が、いつも心の底に溜まっています。
なんで。
なんでしてくれないの。
なんで納得しないの。
なんでそんなことにこだわるの。
本人すらもわかっていないかもしれない「なんで」が、もう数え切れないほど私の焦りとなって、そして怒りとなって、子どもに向かってしまいます。

どうしたらいいんでしょうか。

これは普通なのでしょうか。
これが、普通なのでしょうか。

答えが欲しいわけではないと言いましたが、違いました。
答えは、全く欲しくないです。

答えを知りたくないです。
答えを聞くのが怖いです。
慰めなどは、なお聞きたくありません。

きっと、辛くなるばかりだから。

きっと、「あなたに何がわかるんですか」と言いたくなってしまうから。

理不尽だと、論理的でないと、わかっているけど。
絶対に私はそう感じてしまう。
不思議と、そういう確信があります。
すみません。

「成長とともに、いつか終わるよ」

わかっています。
きっとそうなのだろうと。
でも、そういうことではないんです。
今。
今がしんどいのです。
仮にそのうち終わるのだとしても、今が。

だからと言って、今の時期を適当に流すことは、したくないのです。
終わるからこそ。
今しか、この成長過程には立ち会えない。
1日1日が、まだまだ小さなこの子にとっての大事な成長期間で、この子を形成するかけがえのない日だから。
その場しのぎで、抑えつけたり、完全放置したりすることは簡単だろうけれど。
やっぱり私は、あとになって、自分の育児に後悔したくないのです。
「あのとき、もっと正面から向き合ってあげればよかった」
「なんで、本人の叫びを受け止めてあげなかったのか」
そういう後悔を、絶対に持ちたくないと、そう思うのです。

このしんどさは、逆に言えば、受け止めようとしているが故のしんどさなのかもしれないじゃないかと、少しだけ思うのです。

その可能性を、どうやっても無視できないのです。

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ロールプレイングゲームと同じです。

私は小さい頃から、ゲームが大好きでした。
「でした」なのは、子どもが生まれて以降、ゲームなんてしている余裕がないからですが…。

ドラクエでも、FFでも。
私は、宝箱を取り逃がしたくないタイプです。
壺でもタンスでも、全ての民家に侵入し、調べて回ります。
ひとたび洞窟に入れば、全ての行き止まりを確認しないと落ち着きません。

「取り返しがつかないかもしれない」
「実は大事なものを取り損ねるかもしれない」
そういう強迫観念みたいなものを、感じます。

今日というしんどい1日に、宝箱が潜んでいるかもしれないのです。
この酷い癇癪の果てに、大事なものが隠されているのかもしれないのです。
あまりのワガママに打ちひしがれるのは、物語の重要イベントなのかもしれないのです。

それらはもしかしたら、今この瞬間にしか、手に入れられないかもしれない。
後から取りに戻ろうとしても、戻っては来られないかもしれない。

そういう道の上に、私は立っていると思うのです。

まだ自分の手ではうまく拾えない息子の代わりに、親である私が、一つ一つ拾い集めてあげる。
手渡してあげる。
泥の中を裸足で歩いて、素手で爆弾を拾うような作業だけど。
それが、私の役割なんだろうと。
30年以上も「自分のため」に歩かせてもらった私というキャラクターが、「親」というジョブになった結果課せられた、宿命なのだと。
そう、これを書きながら、思い始めています。

もしかしたら、いわゆる「普通」よりも、深くて濃い泥の中なのかもしれません。
しかし、それならばなおのことです。
本人には到底拾えない何某かを、私が探してあげなければいけないじゃないですか。

子どもであることも。
未熟であることも。
うまくできないことも。
当たり前に、何ら罪ではないのですから。

この、
「綺麗事は頭では分かっているけど、そんなの心がしんどくてできるわけない」
という自分を、どうにかしないといけないのだと思います。
「理屈じゃないんだよ!怒るのなんて仕方ないだろ!大変で、しんどいんだよ育児は!やってみないとわかんねぇよこんなの!」
と叫んで責任逃れする、自分の中の未熟な自分を、飼い慣らさないといけないのだと思います。

頭でわかっているなら、きちんとやらないといけないのでしょう。
理屈じゃないのが子育てだと理解しているなら、向き合わなければならないのでしょう。
思い通りにならなくてムカつくとか。
こんなに自分を犠牲にしているのにとか。
どうしても思ってしまうけど。
本当はやっぱり、それを上手に処理して、飲み込んで、そして、ハガネの理性でドブさらいをしなければならないのでしょう。

それができるようになるのが、「親」としてのレベルアップによるものであるならば。

この葛藤や自問自答も、経験値になっていると信じたい。

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たとえ、ウチの子が普通ではなかったとしても。

やることはきっと、普通だった場合と、何も変わらない。

親として普通に、親をやる。

子どもが子ども自身に責任を持てるようになるまでは。
私が子どもの人生に責任を持つ。
きっとそれだけなのです。

普通に考えて、子育ては異常です。
それが、ウチの場合は、さらにもう少し異常さを増しているだけです。

振り返ったら「ああ、大変だったけど今となってはいい思い出だなぁ」と思う、みたいな。
そういう月並みな言葉を普通に吐けるように。
今は目の前のこの子だけを見て、頑張るしかないのです。

ラスボスと対面する、その日まで。

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