AC|捨てたかったのは名前ではなく、強要された生き方
こんばんは。hamuです。
突然ですが、わたしは自分の苗字(旧姓)と名前が好きではありませんでした。ずっと「できることなら名前を捨てたい」と思っていました。
わたしの苗字(旧姓)と名前には、母のこだわりがあります。母は独特な価値観をもった人間で、わたしの中では毒親。
入籍をきかっけに苗字が変わり、今では名前を意識することは減りました。あらためて考えると「名前を捨てたい」ではなく「名前から連想する、強要された生き方を捨てたい」かったのだと思います。
今日はそんな、わたしの名前と母にまつわる話。
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母は父の「苗字」が好きだった
母のこだわりを語る上でかかせないのが、母の結婚。話は母が20代のころに遡ります。
母は短大卒業後、仕事で父と出会いました。母が好きな分野・職種を生業としていて、その界隈では「憧れ」のような存在だった父。
そんな父に憧れ、いつしかみそめられ、母は父と結婚したそうです。
子どものころ、母に「お父さんのどんなところが好きで結婚したの?」と何度か聞いたことがあります。
あるときは少し不機嫌になり、「え?そういうのは…知らないわよ」と言葉を濁しました。またあるときは「苗字が素敵で『わたしこの苗字になりたい!』と思ったのよ!」と嬉しそうに話したり。
答えを聞いたわたしは「照れてるのかな?」と思いました。苗字についても照れ隠しというか、「好きだから結婚する(結果的にその苗字になることが嬉しい)」という意味なのだと解釈しました。
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晴れて結婚し、憧れの人と憧れの苗字を手に入れた母。父は芸術関係の仕事をしており、発達障害のひとつ「ASD」の気質を持っていました。
ひとつのことに執着し、周りが見えず、空気が読めず、ときに感情的になり、人の話が聞けない。常に父のフォローをしていたに母は「なぜ自分はこんな目に」と何度も思ったそうです。
母のうっ憤は溜まり、高校生になったわたしはすっかり母の愚痴聴き役に。あるとき母から、こんな話を聞きました。
実際、父が高齢となり仕事ができなくなると、母の態度は変わりました。それまでも父に冷たくあたったり、2人で大声でケンカすることはありましたが、前にも増して母の態度は冷たくなったのです。
聞こえる独り言で父への文句を言ったり、病気の症状でいろいろなことができない父を「当てつけだ」と非難したり。
当時のことを、母は次のように話しました。
この言葉を聞いたとき、母が愛したのは「父」ではなく「父の仕事」だと気づきました。
実際、母の口から「父のこういうところが好き」という言葉を聞いたことはありません。
ですが「父が完璧に仕事をこなす姿を見ると満足する」「わたしの夫なのよ、という誇らしい気持ちになれる」という話は、何度も何度も聞きました。
「苗字が素敵だったから」という結婚の理由も、今では本当に言葉のとおりだったのかもしれないと思います。
こういった経緯から、わたしは母の言い分や父への態度を連想してしまう、自分の旧姓が嫌になってしまったのです。
「お世話になった人」にちなんだ名前
次は名前。ここにも母のこだわりがあります。
わたしは3人姉妹の末っ子。母の意向で、わたしも姉も「父にゆかりある人の名」にちなんで名付けられました。
わたしの名前の由来となったのは、長年、父と母が仕事でお世話になった人、仮にAさんとします。Aさんとわたしの家族は、あまり良い関係ではありませんでした。
表向きは親しい間柄ですが、Aさんと母は2人になると、わたしの父や姉、他人の陰口を言ったり、逆にAさんがいない場では母がわたしや姉にAさんの悪口を言ったりしていました。
「父が仕事でお世話になっている」「すごいキャリアをもつ人だ」と言われる一方、Aさんと母の周りでは「悪口」が醸されていました。
自分の名前の由来になったAさんですが、わたしの中では「母と悪口を言う人」「怖い人」というイメージでしかありません。
苗字だけでなく、自分の名前もあまり好きになれなかったのです。
名前そのものが嫌なのではなく…
少し前、さほど親しくない知り合いに「結婚したい理由のひとつに苗字がある、母が好んで選んだ苗字だけどそれが嫌で、変えたいと思っている」と成り行きで話してしまったことがあります。
すると相手は、「苗字が変えたくて結婚したいなら、苗字が素敵と思って結婚したお母さんと言ってること同じですよ」と笑いました。
そう言われて大きな疑問が生じました。
わたしは単に、外見的な意味で「名前が嫌だ」と思っていたのかな?
はっきりと「そうではない」と感じました。
母はわたしや姉が子どものころから、父と同じ道を進むよう強くプレッシャーをかけていました。本人の好き嫌いに関係なく、「父の仕事は高尚」「好きになるまで頑張ってみて」と言われ、強要され続けてきました。
父の仕事、母の思い入れや好みを強く感じさせる「わたしの名前」。
名前から連想するかつてのプレッシャーや「強要された生き方」が嫌なのであり、それこそが、わたしが捨てたいと思っていたものだったのです。
今の呼び名は、どれも好き
わたしと姉は大人になり、お互いをあだ名で呼ぶようになりました。はっきりこの時期からということではなく、なんとなくお互いがそう呼び始めて馴染んでしまった感じです。
夫や友だちには、職場時代のあだ名で呼んでもらっています。そのあだ名は旧姓にちなんでいるのですが、一緒に働いた人や仕事を教えてもらった夫のことを連想すると、嫌な気持ちにはなりません。
むしろ、そうやって親しく呼んでもらえてうれしかったな、という記憶が強く残っています。
そして何より「強要されていた生き方」から解放され、自分が過ごしたい人と暮らせて、やりたい仕事に就けて、気ままな生活を送れていることが、名前を意識しなくなった一番の理由だと思います。
今の呼び名は、どれも好きです。
おわり