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タンマガイ寺へ行く
過去の不幸を変えるとは前を向いて生きていくことである。このごろ研究用の窯に必要な煉瓦がだいたい揃い始めてきた。元々、前の大学の卒業でやろうか悩んだすえに辞めていた研究であった。イッテコイ窯の火が焚き口の上にある煙突に戻るには2階の焼成室と1階の焚き口が別れるように棚板を作らないといけない。これには棚板を使う。しかし棚板を買うと高くつく、そこで明治以前の棚板を参考に粘土と砂で厚さ10㎝30㎠の棚板を作った。棚板といってもレンガである。近代以降に棚板は科学の発展とともに薄くて熱に強く軽い材質へと変わっていった。
ビルマ独裁者によって上映禁止されたドキュメンタリー映画の上映会がはじまる先週の木曜日の午後まで片付け、他のニギリクレの窯出しまで時間がかかった。この上映会は、20人程度しか入れないライブハウスである。建物はまるでアンネフランクの屋根裏部屋を地下室に改築したようなデザインであった。壁を押すと扉になっておりその下に階段が続く。10数人ほど来館者と職員がいた。主催者であるアートコレクターと久々にあった。私に暴力を振った例のミャンマーカレー屋との沙汰以来である。このアートコレクターに自分で作った陶彫の合子を差し上げ、この合子に多くの来館者が注目してくれた。会場の手伝い人である武蔵野美術大学映像科学生と知り合いになった。その中にこの学生がいた。この翌日に工房を見学してくれた。共感者が増えたようで嬉しかった。
この金曜日には鉄の煙突がとどいたものの本体の接合がうまくいかずジョイントを粘土と砂でこさえた。先週の土曜日までかなり重労働であった。この作業している数日は祖母に電話しようかずっと悩んでいた。しかし私が作業で家にいないくて知らない間に、感染症で死にかけていた来年で100歳になる祖母は胆管のドレーンが抜けて東京にもどり退院していたと日曜日に家族から聞いた。誰かの不幸で私個人の生活が不安定になるのはごめんである。祖母が入院中に、私が僧侶になってターミナルケアをするまでは死ぬな!先に死んだら孫不幸ものという内容のキツいLINEを送ってやった。祖母は反抗期に両親を感染症で無くし親に反抗していたこと我がままであったことを悔やんでいる。このようなトラウマからこのようなLINEが来て泣いていたらしい。この日曜日に限ってやるべきことが一つもない。金曜日から土曜日にかけて頭痛がして寝込んでおり、疲れがあり午後まで寝ていた。頭を振ると脳裏が痛い。
汚泥に咲くハス タイ民主化問題を伴う教団混乱に動じない恩師に私個人の成果と願文を伝える
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