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イッテコイ窯が7割完成する ①準備編

先月はコロナ感染により研究が遅れてしまい遅れを取り戻そうと当日の前日まで焼いていないレンガ(ニギリクレ)数百キロ、窯道具を親の車に詰めた。10月12日夕刻、長野県の築窯現場へ出発した。到着してすぐに現場の窯を解体し、生レンガの4丁や窯の部品が焼けるように窯を組み直した。燃焼室にレンガと共に豆炭を詰めた。その後炊き口から薪をくべて着火。2時間後、炉のレンガは真っ赤になり輝いており成功している兆候が見られた。早朝4時起床しすぐさまに窯からレンガを取り出した。まずまず焼けているようである。まだレンガは20丁程度残り、燃焼室及び焼成室の屋根となる棚板がまだ焼けていなく午後から大量に焼くため庭先の穴で泥窯を作る予定になった。


響の技術指導

翌日、10時から富士見町にある窯築(陶芸薪窯を作る職人)である響へ行って築窯の技術指導を受けに母と向かった。現場から響までは車で30分およそ20キロある。到着してから薪窯がある建屋で相談を始める。この中でやはり、窯の屋根を作ることは非常に難しいと感じた。というのも屋根はハの字に熱で崩れることがあり、大型の窯ならば小さいレンガを寄せ集めた太鼓橋のアーチ、小型なら厚さ5センチ以上の棚板で組まなければならない。例のマックコンピューターの形をした屋根は生のため古墳時代の窯のようにヒビが入ったら修繕しつつ使用していく過程で自然に焼きしまっておき、手入れさえすれば使えるかもという助言をいただいた。ただし小さい焼却炉のような窯だけには向いているかもとのことであった。ひとまず今回はマックコンピューターを焼かないで使用することにした。ただし崩れないために針金で固定しなければならない

泥窯の準備

素焼きは前に焼いて焼きが甘いレンガを含めるとレンガの数が多く2回に分けて焼いた。帰宅し、昼食をすぐに済ましてからすぐに窯を組み始めた。薪割りを始めた。泥窯とは作品を藁と薪で覆いその上から泥や灰を被せて着火するタイ族やモーンやビルマ族及び弥生時代の焼成技術である。「覆い焼き」ともいう。日本では陶工の吉田明が藁と泥の代用として濡れ新聞を使って行っている。今回は梱包した段ボールを濡らして泥窯にした。
薪は現場近くで工場長をする叔父から分けてもらった廃棄する推定200キロ以上のコンパネである。四千円でかった電気チェーンソーで切ってみると、何やら松脂の匂いがする。こりゃ叔父の起点に感激した。陶芸では松の薪が非常に火力が強く薪代の節約になって重宝されている。家族総出でダンボールを濡らし壁材を作った。着火
急激に温度が上昇しないのですごく煙い

1回目の素焼き

夜8時ごろ3メートルほどの火柱が立つ

翌日四時ごろ窯出し、羊羹と呼ばれる断面が等脚台形になっているレンガを生の時に寄せ集めて接着したレンガはバラバラになっていた。しかし棚板は焼けていた。しかし包装したままの生レンガは包装紙ごと焼けていなかった。

1回目の素焼きをやり直して

この日は時間が素焼きの焼き直しをしつつありイッテコイ窯のカタチを確認するために仮で組み立ててみた。この日は買い物と段ボールの入手を兼ねて下山しスーパーへ両親と一緒に行った。

2回目の素焼き 焼き直し

翌日の焼きが甘いレンガ合計で10丁と煙突を泥窯で焼成を試みた。今回は火力を上げるため段ボールの半分を濡らさず覆いを作り泥を塗ったくった。道端にあった枯れ草を集めて焚き口に着火。とにかく煙い
「ボン!」2時間後水蒸気爆発の爆音が蓼科山へ響く 煙突の乾燥が甘く亀裂が入ったようである。コロナで慌てた結果乾燥が甘くかつ薪が少なかったようである。

イッテコイ窯の仮組み立て

素焼きをしている間、翌日にイッテコイ窯を組み立てるために全体像を確認すべく両親と仮の組み立てを行った。よる9時まで時間がかかった。仮の組み立てをしたことを福島釉薬の先輩に報告したところ、棚板を削ってアーチにしたことが熱で割れやすくなり危険であると指摘していただいた。

早朝4時、素焼きを出した。レンガ(ニギリクレ)は炭化していた。薪が接触していたのかそれとももともと木節粘土には亜炭が多く含まっており、この炭が燃えきれなかったのかはわからない。700度程度で焼いたような質感であった。



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