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歩いて登園と抱っこの葛藤
「歩いて登園」
娘の通う園までの1キロ強、できる限り歩いて登園するようにしている。
これは私の持論だが、ある一定の距離を毎日歩くことは基礎体力は勿論のこと、やがては自己肯定感に基づいた自立心を育てると思っている。
それを総じて「人生を歩く力」と呼んでいる(ま、わたしが勝手に言ってるだけですが)。
この「人生を歩く力」は、何かの衝撃で突発的に身につくこともあるが、概ね日々の積み重ねで育つのだ。
毎日歩く園までの道はまさに日々の積み重ね。
未来のプレゼントを育てるような気持ちで、晴れの日も雨の日も、早くて20分、長ければ50分かけて娘と園にたどり着く。
「え?結局、抱っこしちゃってない?」
ところがですよ。
あれ、園に着きましたけども・・・?
しかも、抱っこしてますけども・・・?
そうなんです。
この「人生を歩く力」を育てる尊く遥かなプロジェクトは、気づけば高確率で私の修行の時間になっている。
そりゃね、1キロなんて健康な大人が歩けばどうということのない距離ですよ。
しかし、中高年が抱っこで歩く1キロは、苦労倍増ではきかない程のリスクだらけ(前述のnote「抱っこで歩行は当たり前ではありませんっ」https://note.com/hammingdoor/n/n6a756202cd7f 参照くださいませー。)。
娘はというと母の抱っこで高みの見物、とまでは言わないが、少なくとも自分で歩くよりは相当な楽をして大人の目線を楽しんでいる。
鼻歌なんか出ちゃったりして。
「あーるくのっ、だいすきぃー」なんて歌っているけど、あなた一歩も歩いてない・・。
こういう日は、尊い思想もどこへやら。
体も悲鳴をあげっぱなしで、ガタガタのボロボロで帰路につく。
では、なぜ抱っこするのか?
ふにゅふにゅほっぺ、キラキラおめめ、やわらかな髪、それらに触れながら体温を感じる幸せ、この上なし、、、。
これは親として受けられる代え難い恩恵の一つだと思う。
47歳の母ならば娘は大学生でもおかしくないわけで、それがこうして瑞々しい2歳児のほっぺにすりすりできるなんて、奇跡ですよ。
抱っこと自立と親心
育児は迷いの連続の日々。
傘を持つ持たないの小さなことから、親としてどうあるべきかという漠然としたものまで一生のうちで何回迷い、決断するのだろう。
「毎日歩いて登園」が「人生を歩く力」を育むかどうかの真偽は定かでないし、ここでの抱っこがその妨げになるかもわからない。
が、ふと思った。
今はまだ、娘も幼く「抱っこするしない」程度の話だが、いずれもう少し大きくなった時のことを。
生きる上で大切な何かを子どもが身に着けようとしているとき、親は子どもの人生から退散すべきときもある、と。
子どもの人生と、親として受けられる代えがたい恩恵。
親という生き物は、この狭間で揺れ続けるのかもしれない。