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國分功一郎氏の消費社会批判について

生活を楽しむしかなかった時代?

久しぶりに、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を手に取ってなんとなく読んでいたら、生活を楽しむための訓練を説いている箇所が目に留まった。

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルや社会運動家ウィリアム・モリスを引き合いに出しながら、現代人は消費社会によって人間性を疎外されており、人間らしい生活を取り戻すために、それを楽しむための「訓練」が重要になってくると國分さんは主張する。 ここで訓練というのは、古典文学を楽しむためにギリシャ語を習得するとか、絵画を楽しむために周辺の歴史について知識を身に付けておくとか、そういった類のもの。

もっとも、「生活を楽しめるようになること」それ自体はよいことに違いないんですが、引っかかったのは、モリスやラッセルの時代は、そのような訓練をわざわざやらないと、およそ生活そして人生というものを楽しむことができない、そんな世界だっただけにすぎないという見方もできるのではないか、と。

19世紀ぐらいだと、人類はまだまだ「生産」の構造に従属していて、農工業に従事する人が大半だった。私たちが知っているような全面包囲的な消費社会は、当時はまだ成立していなかった。現代のように、大半の人間がサービス業に従事している世界ではないので、ディズニーランドに行きたくてもキャストがいない、キャストが通勤するための交通手段がない、という状況だったわけです。当然、そのような世界では、自分で生活を楽しむ術を訓練して身につけている人が幸福になりやすい(そういうのが身についていないと人生は空虚となる)。

國分さんは、「モリスは消費社会が提供するような贅沢とは違う贅沢について考えていたのである」(p.27)と書いていますが、そもそもモリスの時代には、現代人がそう呼べるところの「消費社会なるもの」は成立していなかったはず。モリスのような人が、「消費社会もいい、だけどそれでは人間らしい生活が疎外されてしまう。我々に必要なのは生活を楽しむことで・・」みたいなことを、少なくとも現代と同じノリで言ってたわけじゃないはずなんですよね。

19世紀イギリス的な文脈でいえば、いわゆる産業革命の勃興・進行期にあって、子どもを一日15時間働かせたり、人口の急増で都市に感染症が蔓延したりしていた時代なわけです。そういう時代には、國分さんのいうように「生活をバラで飾る」ことが切実な意味をもちえたかもしれない。

昔の人は偉かった、生活を楽しむ訓練をしていたというけど、それは見方によっては、「そうしないと人生楽しくなかったから」ってだけだったのではないか。昔の人も本当は消費者になりたかったけど、無理だったから仕方なく趣味を育てていたと解釈もできる。現代は昔と違ってディズニーランド(ちょっと高くなりましたが)があるのに、なぜ、そういうのがなかった時代に人々が適応していた生活様式をもう一度復権させようとしないといけないのか。この辺の必然性は、あまり説得的に議論されてないように思う。


消費社会という「福音」

もっとも、本書はとにかく「消費社会憎し」のノリで貫かれていて、360ページあたりでは、「消費社会陰謀論」とでも呼ぶべき議論が展開されている。

消費社会は(・・・)気晴らしの向かう先にあったはずの物を記号や観念にこっそりとすり替えたのである。それに気がつかなかった私たちは、物を享受して満足を得られるはずだったのに、「何かおかしいなぁ」と思いつつも、いつの間にか、終わることのない消費のゲームのプレイヤーにさせられてしまっていたのだ。浪費家になろうとしていたのに、消費者になってしまっていたのだ。

『暇と退屈の倫理学 増補新版』p.360

私たちは本来浪費家になりたかったのに、不本意にも消費者にさせられている。引用において國分さんは、「〜だったはず」という徴候的な構文を二回使用していますが、このような物言いは、本書がこだわってきた「本来性なき疎外」という概念操作と矛盾するものではないのか? ・・まあそれはともかく、引用の話は、消費社会の一面的な理解にすぎないように思います。というのも、当たり前すぎる話ですが、消費社会で我々は単に消費者としてふるまっているだけじゃなく、労働者、生産者としても同時にそこに携わっているからですね。

消費社会は、広告やマーケティングで欲望を喚起して、「記号」に人々を屈服させて無限に煽り続ける。その「醜悪さ」は認めなければならないが、そもそもなんでそんな消費社会を人類挙げてやってるかといえば、近代以降の度重なる技術革新、生産性の向上で、もはや人類は「やることがなくなった」からだと思う。

モリスの時代は、ギリギリ人々は工場のラインで働いて物を生産していたが、そういう価値はどんどん希釈化され陳腐化するので、社会の発展とともに人間はやがて製造系の労働力からは排除されていった。仕方なく、都会でオフィスワーカーになったり営業マンになったりして、物ではなく「欲望」を売るようになった。欲望を商品化して売るようになったのだ。

そういえば、國分さんは斎藤幸平さんとのラジオ対談で、「資本主義っていうのは、一言でいえばなんでもかんでも商品化しちゃう社会のことだ」と発言していましたが、

これはしかし、見方を変えると、サービス業で己の労働力を売って生計を立てていくしかない現代人にとっては、「商品化して売れるものがある」というのは、ある種の「福音」なのではないか、とも考えることができる。

しょうもない商品に溢れ、本当は必要ないものまで買わされるというのは、消費者の目線で見れば大いに問題もあるが、労働者の目線から見れば、「しょうもない商品でも、本当は必要ないと思えるものでも、人は買ってくれる」というのが反転的に成立している。

國分さんは消費社会を克服しようとしていますが、その一方で、生計の問題までは考えていない。国民全員が土地を持っていたり資産家であったりするのなら、「お前ら、消費社会でうつつ抜かして人生を無駄にするな!」と言ってもいいと思うんですが、我々現代人は、まさにその消費社会を共犯的に促進することでかろうじて食えている、というのも事実なんですよね。生活に必要なものは、農業であれ工業であれ、大規模集約的に機械を使って生産されるので、もはや人間の出る幕がない。消費社会であってこそ、我々は広い意味での「ビジネスマン」として、謎の付加価値を創造して商品(エッセンシャルワークですら)を人々に売りつけて食っていけるんだと。

題名にあるように「倫理学」ということをいうなら、こういう消費社会の構造を認識した上で、「まあ、消費社会もいろいろ醜悪な面もあるけど、同時に社会が消費主義的であるおかげでいろんな仕事が存在できてるんだから、我々は意識的にどんどん消費して、お互い様ってことで、ともに食わせ合っていこうじゃないか」という話をしてもよかったんじゃないか?

ラッセルやモリスの時代だって、状況さえ許せばみんな消費者の方を選好したかもしれない。モリス的な浪費家の理念は、「それ以外に人生を豊かにする方法がない」がゆえに、仕方なく選択されただけの生き方かもしれない。


「暇の王国」の問題

もっとも、反消費社会的気分に支配された本書を締めくくるにあたって、國分さん自身、その議論の射程が十分でないことに薄々気づいているようにも見える。

生活を楽しみ、物をそれとして享受し、味わうような生き方は、本の題名にあるように「暇」を前提としている。我々は暇であるにもかかわらず消費者になっているのではない。そうではなくて、「暇」が遠く手の届かないところにあるからこそ(あるいは、あたかも遠ざけるようにして)、消費社会のインスタントな記号的快楽に服従するのだ。これまで述べてきたように、消費社会は「そこで自分も稼がせてもらう場所」でもある。忙しく働いていちおう付加価値的なものを生産して、クタクタになって帰ってくるからこそ、テレビや酒ぐらいしか楽しめるものがない。物を味わう、生活を優雅に楽しむどころではないのだ。

結局は「暇の王国」(p.368)を目指さないといけない。國分さんが本書で最終的に辿り着くのはそれだ。「どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いだ」(p.369)。目指すべきは脱労働社会である。

なんだかんだ我々が消費社会に甘んじてしまうのはそもそも労働で日々忙しいからだ。時間がなくて、それこそ暇と退屈どころではなくて、生活を楽しむ余裕がないからだ。

ベストセラーとなっている三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』においても、「週三日正社員で働きながら本の読める社会を!」と、仕事に対する「全身全霊」な姿勢を見直すことが主張されている。國分さんの本は2011年のものですが、そこから十数年経っても、やはり「労働」が哲学的にアツいテーマであり続けているわけです。

ただ、個人的には、仮に(ベーシックインカムなりFIREなりで)皆に暇を許容する社会が到来したとしても、皆がそんな物を味わったり本を読んだりするようになるかといえば、ちょっと微妙じゃないかとも思うんですよね。

三宅さんの本を読んでいるときも思いましたが、労働と趣味が両立できる「半身社会」になっても、結局ひとはSNSやゲームの世界(つまり消費の延長)に埋没しちゃうんじゃないか。暇を許容する世界になっても、単純に消費社会が延長されるだけかもしれない。

そして、消費が延命するということは、そのために「もっと働いて稼ごう」となりやすい世界でもある。そんな力学が働いて、みんな時間的にゆとりのある生活に憧れつつも、なんだかんだで忙しい生活ぶりが変えられない、そんな負の力学が働きそうな気もします。というか、現にそういうメカニズムの結果として、悠々自適な生活よりも、ブルシット・ジョブであろうがなんであろうがとにかく正社員的な労働様式が選好されているようにもみえるんですよね。


消費社会は「答え」かもしれない

國分さんは「暇の王国」を掲げるけど、人間、暇になったからってただちに脱消費者化して、自分の生活を味わい、楽しむようになるかといえば、そうとは限らないんじゃないか・・こんなふうにモヤモヤ考えていると、増補新版の付録で、このあたりについての自己批判的な考察が続けられていました。國分さんは、サリエンシー(不測の刺激)という精神医学の用語を導入しながら、人間は、暇になったら暇になったで、痛む記憶によって内側から苦しめられるのだと指摘する。

暇になると苦しくなる。その苦しみは実に強力なものであって、身体的な苦しさよりも苦しい。人は、何もすることがない状態、何をしてよいのか分からない状態の苦しさに陥るのを避けるためであれば、よろこんで苦境に身を置く。

『暇と退屈の倫理学 増補新版』p.427

周囲にはサリエンシーはないものの、心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これこそが、退屈の正体ではないだろうか。

『暇と退屈の倫理学 増補新版』p.428

これらは、先ほどの「暇の王国」というビジョンに対する若干の留保ないし修正として解釈できる箇所だと思いますが、このあたりの記述について、僕も読みながらいろんなことを考えました。

たとえば、話がちょっと飛ぶようですが、現代病であるアレルギー疾患とか自己免疫疾患のようなものも、衣食住が満たされて生活が豊かになった現代人にとっての「サリエンシー」なんじゃないか。

豊かになって外部からの刺激が減った現代にあって、内側からかゆみや炎症を引き起こして痛みの記憶を忘れないようにさせる。外敵がいなくなったら、今度は自分自身を攻撃する。痛みはない方がいいに決まっているが、ないならないで、それはどこかすわりが悪い。

レヴィ=ストロース風にいうと、痛みは、どんな無根拠なものであっても、ないよりはあった方がいい。そんな身体の狡知が読み取れるかのようです。面白くない退屈な授業では、なぜか顔が痒くなってぽりぽり掻いてしまうのに対して、本当に面白くて集中して聴いている授業ではそういうのが全然ない、みたいな。


また、為末大さんはコロナ禍の過剰なゼロリスク志向を念頭に、日本社会をいみじくも「なにかあったらどうするんだ症候群」に冒された社会として鋭く表象しています。これは現代の見取り図として大変有用で僕も心から同意するものなんですが、

一方で、これは別の視点から見ると、私たち人間は、万が一の微細なリスクに対してすら敏感に反応できるという事実を示してもいるんですね。万が一、つまり1万分の1のリスクですら我々は「苦しむことができる」。10000が9999になりかねないという誤差みたいな差異ですら、我々に可感的なサリエンシーを引き起こしうる。

「なにかあったらどうするんだ症候群」に冒され、目を凝らさないとよく見えない微細なリスクにお行儀よく対処してるうちに、気づいたら生活が忙しくなっている。我々は「万が一のリスク」ですらサリエンシーを受け取り、そこから逃れるためにわざわざ忙しくする。仕事が増える。いや仕事を増やす。そして忙しくなるからインスタントな消費に走る・・。


ともあれ、このように考えてくると、 國分さんが理想視するような、人間らしい生活を可能にする「暇の王国」とは、正味においては人々が内側からの痛み(アレルギー)に苦しめられる世界であり、人々はむしろ、この退屈の苦しみから逃れるために、忙しく刺激的な生活を選好するようになる。その結果が、國分さんが批判するような消費社会なのではないか・・こういうふうにも考えられるわけです。『暇と退屈の倫理学』は、実はブルシット・ジョブと消費社会を肯定する道を通じて書くこともできたのではなかろうか?

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