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「政治が変わらないと世の中良くならない」について

最近、批評家の宇野常寛さんのポッドキャストを聴きながら散歩するのが日課になっている。7月5日の放送は、都知事選の展望を語るものだった。

宇野さんは放送で、「自分は蓮舫に入れたい」と語っている。蓮舫が良い候補だからではなく、小池百合子への批判票を投じたいという考えのようだ。これは構造的関心からのものでもある。民主主義において、「政権交代」の可能性を人々がリアルに感じられるということそれ自体に価値がある。体制が覆るかもしれないという「夢」が見られるかどうか、このことが、誰がどんな政策を実行するか云々に先立って、民主主義が健全に機能するための可能性の条件である。そんな問題意識が、宇野さんをして蓮舫支持に向かわしめたようだ。

体制が覆る、政権交代が起こる。そのためには当然野党も強くなければならない。宇野さんが指摘するように、最初から敗北主義、2位3位狙いの野党ではダメだ。また、ここ十数年威勢のいいグローバルエリートにしても、気候変動だ SDGs だ LGBTQ だと浮ついた道徳のお題目を唱えているばかりでなく、ちゃんと国内の問題に目を向けて、政治的に主体化する必要があるという宇野さんのビジョンは、骨太で説得性に富む。

その大意に、僕もとりわけ異議はない。また、自分自身も東京都民ではないし、普段の国政選挙にしても、そこまでしっかり情報収集して投票に行っているわけではない(行かないことも多い)。

その上で、都知事選と民主主義の未来について宇野さんが語っていたことから発展して、今回はちょっと別のことを考えてみたい。まあ、月並みっちゃ月並みなことなのだが、一般に「社会を変える」「社会が変わる」といったときに、その方法は選挙しかないのだろうか、ということである。

日本に関していえば、自民党の中にも派閥の緊張関係があるし、政治家がダメでも、なんだかんだ官僚が優秀だという文脈もある。判官贔屓で敗者や弱者に寄り添う文化風土もある。

何よりデカいのは、外圧に寛容だという点だろう。

アメリカなり国際社会なりの虎の威を借りて綱紀を粛清するという手法は数多あるし、個人的には、政治だけじゃなく、経済活動の面でも、外圧の力学は結構大きいように思う。

最近だとスマホや SNS なのだろうが、これらはもちろん、西海岸の巨大テック企業群(GAFA)が生み出したものである。このテクノロジーで、ここ十数年の日本社会も、大きな変化を被った。スマホ・SNS のようなシームレスでスムースなインターフェースを手引きにして、あらゆる社会的関係が再構築されていった。よく知らない街で行き方を人に訊くか訊かないかのうちに、スマホを取り出して Google マップで検索するようになった。公共性の感覚も大きく変わった。SNS は告発の道具となった。いつでもどこでも、スクショされたり録音されたりもちろん写真撮られたり、そういうので失脚させられるケースがたくさんあるし、またその可能性があるというだけで、ハラスメント文化がそれとして可視化され、自制されるようにもなった(中間管理職はますます生きづらくなった)。

テクノロジーということでいえば、家電やサービス業の発展も社会の変化に大きく寄与した。家電で専業主婦の負担は大きく減り、家事や姑の煩わしさから解放された。彼女たちが「自立した個人」として労働市場に参入すると、サービス業はますます活気づき、購買力が上昇した彼女たちは多種多様なサービスから自分に合うものを選び、マッサージを受けに行ったりウーバーイーツでジャンクフードを注文したり、自分自身の(隠れていた)欲望を成就するようになった。

世直しにせよ自立の獲得にせよ、選挙を通じて政治に直接訴えかけるより、グローバルな市場経済の力学に乗っかり、消費者としてその運動を(共犯的に)促進することの方が、結果的には効果的で、なんなら「即効性」もあった。政治が社会を変えた以上に、経済が社会を変えた。そういう実感を、個人的にはなかなか否定することができない。

ここ数年で急速に認知が高まりつつある生成 AI にしても、日本は、欧州などと比べて、アレルギーなく受容している向きがある。これも GAFA が関わってくるが、たとえばアップルやマイクロソフトの時価総額は、フランスの GDP よりも大きい。我々は日々これらのテック企業に情報を預け、その商品・サービスを四六時中利用しているわけであるが、これも見方によっては、立派な「内政干渉」と解釈することも不可能ではない。

そのような「政治的リスク」に囲まれているにもかかわらず、しかし、我々は、フツーに平気でそれらのサービスを利用し、もうそれらなしでは生きていけないくらい依存するようになっている。経済的な外圧で、社会も(日本だけじゃないが)大きく変わった。我々は、こうした外圧の力学にうまく乗っかりながら、社会の中に、ちょうどいい居場所を見つけている。ついでに政治の無能に対してもこれで対抗している。

政治で社会は変わらない。経済という下部構造こそが重要である。こういう話になると、「それは政治的無関心だ」として咎められる。宇野さんは note でも、こういう冷笑的?な人々を指して、こう批判している。

ちなみにこういうときに「どうせ何も変わらない」と言いたがる人は、単にマクロな社会はさすがにすぐには変化しない(規模が大きいものは変化が見えにくい)ことを利用して、「ほら、何も変わらなかっただろう」「変わらないと言った俺が正しい」「俺はお前より賢いのだ」と後出しジャンケン的にアピールしたい人で、ただの安易で卑しい人たちだと僕は思う。

宇野常寛〈「石丸現象」の分析から考えた「改革」の「ガス抜き化」リスクと「そうならないための3つの提案」について

宇野さんはここで、「マクロな社会はすぐには変化しない」という観点を挙げているが、僕としてはこの点こそがクリティカルなのだと思う。マクロなレベルで見えづらい変化のために、多くの人が選挙に行ったり政治に関心を持ったりということは期待できない。よく目を凝らさないと見えないような問題とか、場合によってはビジネスででっち上げられた問題とか、そういうもののために国民を糾合することは難しいし、マクロなレベルで誰の目にも明らかな変化が期待できないんだったら、それは、政権交代などという劇的な手段を経ずとも、実務の延長線で粛々と対処すべきスケール感の問題なんじゃないかという風に思う。

現代では、政治で解決できる問題は少ない。あっても、意識高くしっかり目を凝らさないと見えないような微細微妙な問題ばかりである。さらに、 GAFA も含め、民間の力によるエンパワメントも結構無視できない。政治や民主主義と対立する文脈としての市場経済、消費社会。

(このあたりは、経済学者の A.O.ハーシュマン的に言えば、〈離脱〉の力学として解釈できるかもしれない。良くも悪くも、最近は、上司が新入社員を叱れなくなっているが、そういうのも、SNS でいつでも晒せるという外圧が若手をエンパワーしている(若者は会社やコミュニティに対して「離脱的に実存している」)からこそ、上司など「体制側」も、若者を懐柔しようと優しくならざるをえない。若者は面と向かって「それはおかしいと思います!」と〈発言〉するわけではないのだが、それでも、企業文化を変えるのには成功している。退職代行も似たところがあるかもしれない。そういうのをみんな良くも悪くも上手く使いこなしているのが現状なのではないか。)

このあたり、最近僕もハンナ・アーレントや國分功一郎(『暇と退屈の倫理学』)を読んでいてなおさら感じることなのだが、政治とか文化の領域が現代社会においてどんどん貧しくなっているという傾向は、社会を変えるための別の仕方を人々は発見したってことかもしれない。政治がダメだから、政治に関わる我々国民の態度がダメだから社会は変えられないっていうのは、やっぱり現実を単純化しすぎていて、我々は、すでに社会を変えるための色々な道具立て、舞台装置を気づかぬうちに手に入れている。

むしろ、市場経済や消費社会の文脈が社会を変容させるスピード、度合いがあまりに甚だしいので、「政治は、いらんことせずに、あまり変わらずにいてくれよ」という集合的無意識が抑制的に働いている可能性もあると。

もちろん政治は重大な人間の営みであるし、ここまで擁護的に描いてきた市場経済の力学も、むしろ社会の不平等を促進させる方向に働くことも多く、それを規制するための政治の役割は強調してもしすぎることはない。ただ、政治に関する言説は、政治家に怒るものであれ国民を啓発するものであれ、うっかり政治の役割や意義を過大評価しがちである。「政治が変わらないと社会は良くならない!」というレトリックは、政治と社会の解像度を落とすものだ。政治的無力感ということもよく言われるが、それはそもそも政治という営みに我々が過大な期待を寄せすぎていただけかもしれない。

多くの人間がそこまで熱心に投票にも行かず、普段からそこまで政治に関心を持っていないからといって、社会がどんどん悪い方向に向かっていくわけではない。政治の風景は、日本だけじゃなく、どの国を見ても惨憺たるカオスな状況だが、それは必ずしも我々を絶望の淵に突き落とすものではない(あたかもそうであるかのような勢いの言説が多いが)。ともあれ、こうやって書いていると、にわかに都知事選の行方が気になってもきた。今夜は久しぶりに特番をつけて、酒を飲みながら戦況を見守ることにしたい。

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