スマホ時代の反哲学
知的な界隈ではスマホやSNSの弊害がしたり顔であげつらわれますが、私としてはその利点も冷静に確認しておいた方がフェアだと考えております。
まあ、確かにコンテンツとして見ると、劣化している側面も否めないんですが、
結局、シンプルにスマホやSNSの一番の功績って、「常につながり続ける」ことを可能にした点なんですよね。
人間の知的関心をフローの状態に置くことにかなり成功した、それを頭の中の可能性ではなく現実に技術的に可能にした、そうして人間の知能を新しい仕方で拡張(エンパワー)したという点は、改めて強調すべき美点だと思うんですよね。
たとえば、ある哲学者が好きだとして、その人が本を出すたびにこれを楽しみに購入して読んでいる人がいたとします。まあ、普通の風景です。
しかし、本の執筆・制作には時間がかかるので、せいぜい1, 2年に1冊とかしか読めない。これが従来のコミュニケーション環境ですね。
それが、スマホ・SNS時代になるや、その哲学者がたまたまTwitterのアカウントをもっていたりとかすると、
その人をフォローして、毎日、いや毎時間のようにその謦咳に触れ続けることができるわけですね。
本の編集者ですら知らなかったような、その人の「日常」が見えてくるわけです。
昔は、弟子が師匠と起居を共にして生活から師匠のエキスを「感染させる」教育をやっていたわけですが、
Twitterなんか、それに近い身体性の同期(シンクロ)を微弱ながら再現しているんだと思うんですよね。
「師匠」への身体的、生活的親しみがそこで湧くと。
しかも、スマホのポータビリティにはほとんど制限がないですから、日記のようにあとでまとめて振り返って見返してというかたちではなく、時と場所を選ばずリアルタイムで、タイムラグなしに、目の前で喋っているかのように、気になる人とふれあえるわけです。
そういう同期的親密さをふまえて改めて本を読んだりすると、より真実に近い読解が期待できますね。
これも結局、スマホやSNSが「常時接続」を可能にしたからなんですよ。
この「豊かさ」を見ないことにして、コンテンツとしての劣化やつながりすぎの弊害だけを取り上げて批判しても、たぶんこの新しいメディアに浴している現代人には響かないんだと思うんですね。
本などの作品(ストック)とは違う、スマホやSNSといったメディアの代謝性(フロー)が、人々を深いところで惹きつけていると。
ソクラテス自身が本を書かなかったように(笑)、本というメディアからSNSというメディアへの移行は、ある意味で進歩なんだ(だからわざわざ本の時代に戻ろうとはしない)と解釈する余地をちゃんと残しておいた方がいいと思っております。
SNSの弊害は、オフラインに回帰したりその価値を再確認したりすることによって乗り越えられるのではなく、単純に、オンラインのままで、それをよりよく使いこなしていくことを通じてこそなんだ、そういうニュアンスの言説が、まだまだ圧倒的に少ない。うっすらすでにそういう実践はしているけど、まだそれとして言語化はできていないという状況でもあるんだと思います。自分自身も、SNSの可能性と限界について、これからも吟味・検討を重ねていきたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?