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男女の進化論

プレジデントオンラインのポッドキャストを聴いていると、東大の小林武彦教授の記事が取り上げられていた。

小林氏は『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)という面白い本を書かれた生物学者で、上の記事でも、「生物にとって死とは何か」という問題について、わかりやすく説明されている。小林氏によれば、「なぜ死ぬのか?」というのはもう問いの段階でズレている。そうではなく、人間は死ぬから生きるんだと。死ぬことで変異がたくさん起き、進化するんだと。

昆虫なんか、交尾を終えるとすぐ死んでしまうわけですが、生死のサイクルが早いぶん、変異の頻度が高まり、種全体として様々な環境に適応しうる、いわば「帯域幅」の大きい状態が結果的につくりだされてきたわけです。

なるほどなあと感心しながら聴いてたんですが、この話の流れで番組ホストの星野貴彦さんが、何気なく「女性の方が男性よりも一貫して長生きだ」と指摘していて、

たしかに各種平均寿命のデータを見てみても、明らかに女性の方が長生きだというのは事実としてあるわけですが、

ただこれ、僕のバカなセンサーが反応してしまったんですが、これまでの話を踏まえると、暗に「女性は男性に比べて進化してない」って言ってるようなもんじゃないか。

まあ、進化してないっていうと聞こえが悪いですが、

進化心理学的に見ても、女性が「選ぶ性」であるのに対して、男性は「選ばれる性」であって、男性はそのぶん「淘汰」に晒されてきたという事実はあるでしょう。一夫多妻は可能でも一妻多夫は困難だというのは学問的な報告を待たずともなんとなく常識的感覚としてわかる。

女性は男性よりも淘汰を受けない。結果、男性ほど進化していない。「通算成績的」にみて、生死のサイクルもややもすると男性より少ないかもしれない。

もちろん、これは単純に女性の劣等性を裏付けるものじゃないですね。むしろ、そこまで進化しなくても生き残れたということ自体が、反転して女性の優等性を示すものとも言える。選ばれようと必死で努力しながら大半が野垂れ死んでいく男性諸君を尻目に高嶺の花(とは限りませんが)として勝ち誇り、男性に責任をとらせて自分は安全圏にいるという狡知それ自体が女性の進化的適応である。

ただ、スケールの大きい話と小さい話を混ぜるのには慎重にならないといけないとはいえ、男女の進化論的差異という補助線を引くと、現代社会のさまざまな問題の見通しが良くなるんじゃないかとも思う。

このポッドキャストを聴きながら、Xの勉三さんの発言を不意に思い出したんですが、

非常に面白い切り口で、昨今では、毒親、特に毒母の問題を描く小説やルポが多く出版され、反響を呼んでもいる。

多くの女性が専業主婦をしていた時代は、せいぜい姑くらいしか自分を問いただしてくれる存在がいなかったわけですが、男女平等の世の中になり、労働者、消費者として女性の存在が可視化されてくると、今まで問われてこなかった女性の責任能力というものが問題になってくるわけです。

ただ、この責任という話になると、進化心理学的にも、女性は責任を取りたがらない生き物だということが指摘されていて、これもまあ、常識感覚的によくわかる話なわけです。僕も以前女性を「加害者意識の不可能性」として哲学っぽく概念化したことがありますが、女性は、なんだかんだ進化的惰性を引きずっていて、見方によっては都合が良すぎるように見えるのも事実なんですよね。「私にも機会を与えてほしい、でも責任は男の人がとってね!」的な態度が非常に多い。例外はもちろんありますが、一般的傾向としてはそういう印象が否定できない。

フェミニスト的な文脈で、歴史的に女性の社会進出が妨げられてきたという批判的視点もありますが、

その一方で、女性は基本的に責任を忌避する存在だという観測は過小評価できない。進化的にもそうなっているんでしょう。責任はむしろ男(夫)に取らせたい。

そういう傾向があるから、社会も女性を排除してきたのかもしれません。いざという時にハラキリしたり戦争に行ったり隠遁して僧侶になったり、そのつどのシチュエーションに対して責任を取るということを、やはり女性はやりたがらない。もちろん、男性がそうさせないというのもあります。

男の方は、パワハラ昭和親父みたいな批判を受けて、わりと「更生」した方だとは思います。良き父親になろうと自己改善した(さもなければ「選んでもらえない」ので)。でも女性は、たぶん、社会が悪いんだ、そんなに文句を言うなら社会が子育てをするべきなんだという話に持っていきそうな気もする。少なくとも、そういうのが「女性の声」として取りまとめられ、「女性はそういう社会を望んでいるようです」という謎のコンセンサスが形成されていくような予感がしちゃうんですよね。

近代の資本主義が女性を家庭から解放し、男女が同じ対等な土俵に立って競争する時代が到来した。つまり女性は今まで以上に「淘汰」にさらされる生き方を強いられるようにもなったわけですが、これは、「女性の進化を促進する」きっかけとなるのだろうか? 責任を取る自立した主体へと進化していく道を取るか、それとも、依然として責任は男に取らせて安全圏にとどまる道を取るか。自分が女性なら、うーん、後者でしょうか(泣)。

まあ、責任は男に要求しながら社会を批判し続けるというのが、ちょうどいい居心地なのかもしれません。変わるのは男、社会の方、私たち自身は悪くない!と言えることこそが女性の「優等性」だからですね。そしてこのとき、それでもそんな女性になんとか好かれようと、「俺が責任を取るよ」とカッコつけて言わされてしまう男性の「劣等性」が反転的に際立ってくると。

偉そうに女性を批判している僕自身が、その一員です。泣ける。

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