陰謀論とはいうけれど・・・
SNSのXでこんなポストを目にした。
投稿者の櫻井啓一郎氏は、脱炭素系の啓発活動をされている方のようで、このポストでは、それに続いて科学的方法論の模範的手続きがツリーとなって語られてもいます。
一見、もっともな話に聞こえますが、一方で、妙にモヤっとしたところもあったので、備忘も兼ねて、氏がここで展開しているいわゆる陰謀論批判について、少し考えてみたいと思います。
弱いヤツと比べても意味が薄い
櫻井氏は、インターネットやSNSの世界に蔓延る威勢のいい陰謀論を批判しながら、「そんなのに騙されないでね」と啓発しているわけですが、
素朴にまず思ったのは、「じゃあ専門家の話は信じられるのか?」ということ。
櫻井氏はこのポストのツリーで丁寧に科学的方法論について解説していますが、現実には各種研究には様々なバイアスがかかっていますし、だいたい、僕の勝手な体感ですが、専門家が一般人と比べて確度の高い認識ができているとしても、その精度が実は100点満点でいえば30,40点くらいであることも少なくないように思うんですよね。
一般人が20点くらいしか取れないから相対的に優位なだけで、「でもあなたも落第は落第ですよね?」的なことが多い印象がある。
漸進的に進歩するとされる科学的営みにおいて、たしかに櫻井氏のような専門家は、こと気候変動や脱炭素という文脈については、現状、世界で最も詳しい部類に入るのかもしれない。しかし、最も詳しい人間ができるのはベストな判断ではなくてあくまでベターな判断でしかない。ベター、何と比べて? 赤点を取る人よりはマシだとしたところで、なんの救いにもならない。専門家の「威勢のいい」科学的言説については、僕は基本的にそういう冷めた観測から入ることにしています。
櫻井氏は別のポストで、ボクシングの比喩を用いつつ、陰謀論者は、「オレはあの世界チャンピオンより強いんだー!」とヤジっているだけにすぎないと皮肉っぽく書いています。まあわからないではないんですが、同時に、それは問題を矮小化しすぎではないかとも思います。というのも、「気候変動に立ち向かう」「CO2を産業革命以前の水準に戻す」みたいなスケール感の話っていうのは、それ自体、世界チャンピオンが重装備の戦車に闘いを挑むような無理さを感じるからですね。戦車を前にしたら、チャンピオンであろうが赤ちゃんであろうが差は全くない。
そういえば、今年の8月に、日向灘で起きたマグニチュード7.1の地震を受けて、気象庁は「南海トラフ地震臨時情報」を出して注意喚起を促したことがありましたが、
当時、専門家は「地震学的には極めて高い確率だ」と主張していたわけですが、彼らは、手元にある計算データが0.1%から0.5%に「跳ね上がった」ことをもって、そういう主張を展開していた。「地震が起きない確率が99.9%から99.5%に下がった、これは問題だ、社会の行動変容を促さないと・・!」っていうのは、見ようによってはお気楽な商売だなとも思うわけです。もうちょっと質の高い仕事をしてから出直してくれよと悪口を言いたくもなります。まあ、コロナのときの医者はもっと酷かったわけですが・・。
それはともかく、櫻井氏が、仮に、どれだけ質の高い仕事をしていたとしても、世間は専門家についてそういう目で見てしまう向きがあるわけですよ。専門家が実験をしたり論文を読んだりしている間はいいんですが、その知見をもとに社会に向けて発信しようという段になると、途端に考慮すべき変数が増えて、コミュニケーションが困難になる。社会の側でも、専門家の「ズレた」感覚を学習して、「専門家とか専門機関の話って、あんまり当てにならないよね」という集合知みたいなものが形成されていく。
櫻井氏のポストを読んでいる限り、彼自身もその手の専門家の一員として世の中からは見られているんだ/いるのかもしれないという認識が、幾分薄いように感じられます。「科学的に正しいことを言っているのに・・!」というのは、非常にナイーブな臆見で、社会に対する認識が甘すぎるのではと思わずにはいられません。
科学者のバイアス
櫻井氏は続けてこんな風にも書いています。
「研究費欲しさに誇張した主張をしてるんじゃないか」という懐疑的な観測に対して、それを「陰謀論」の一言で片付けるのは安易でしょうし、
「アウト」っていう表現も、「それ、言わないお約束だから」という意味なのかなと邪推したくもなる。「そんなことを疑うのは失礼だぞ」っていう嗜めなんでしょうか。
科学研究について、利益相反的な文脈で批判をする人間というのは、僕も含めてですが、研究費とかそういうセコい話以前に、気候変動を研究する仕事に予算がつくという職業的・業界的構造全体まで射程に入れてそういう批判している向きもあると思うんですよね。
気候変動関連の研究に従事して、比較的安定的なポストと報酬が期待できて、その上で、当該の問題に対して客観的でニュートラルな研究ができるかっていうと、それは果たしてどうなんだろうと。そのような保証された、エスタブリッシュされた研究環境に置かれた人間が、「気候変動ありき」でいろんな変数やデータをいじりがちなバイアスっていうのを、僕はなかなか排除できないでいます。
ガリレオ・ガリレイの落下実験とかそのぐらいのスケール感ならまだいいんですが、気候変動というレベルの話になると、研究だけで相当な金がかかりますからね。とても個人の道楽でできる仕事ではない。当然、その研究の政治的・道徳的正当性を社会に認めさせて、その上で金を継続的に引っ張ってくるという構造の発生は不可避なんですよね。そこでバイアスが極力排除された研究がなされていると信頼するほどナイーブでいられるかどうか。
科学と社会のコミュニケーション
まあ百歩譲って、櫻井氏の言うような、科学共同体の漸進的な進歩によって確度の高い結果やコンセンサスが得られたとして、それをどう社会に反映させていくのか、どう社会に影響を与えていけるのかっていうのは、かなり重たい課題でしょう。
コロナのときもそうでしたが、気候変動の「対策」みたいな話になると、データやエビデンスの確かさを超えて、科学が「社会」という領域に入り込んでいこうとするわけですから、当然、そこでは科学内部の複雑さを遥かに超越した複雑さが待ち構えていることになる。
コロナのときも、医者はよく「素人は黙ってろ」「論文を読んでから言え」と非常に偉そうな物言いをしていたわけですが、ならば同様に、医者は病院と研究室の中だけに引きこもっているべきでもあったと思うんですよね。行動変容を訴えたり、新しい生活様式を押し付けたりするのであれば、いわば「社会の専門家」にでもなってからそう言うべきだった。
もちろん、「社会の専門家」なるものは、存在しません。政治家も経営者も批評家も社会学者も、どれも一長一短でその見識には常に制約がかかっている。それだけ社会というのは多変数で複雑怪奇な代物なわけですよ。第一、自然科学と違って、社会というのは実験や検証ということがなかなかできませんからね。
気候変動の研究者が、気候変動の研究だけやって、「ふむふむ、地球とはこんな風になっているのか」と客観的に観察してるだけならいいんですが、いきり立って「地球が壊れないためにみなさん行動を変えましょう」とかいって社会の領域に踏み込み出すと、様々な衝突と軋轢が生まれてしまう。
で、そんなのは実は最初からわかっていることでもあって、それなのに何故、気候変動系の研究者はあんなに前のめりで道徳的(科学の声を「邪魔」する人を道徳的に非難しがち)なのだろうと訝しむわけですよ。社会という複雑系を前にして、あんな断定的な物言いがなんでそんな簡単にできちゃうんだろう、怪しいな・・というのは、ごく自然で健全な知性の働き方だと思いますけどね。
EVと脱炭素
櫻井氏はEVの研究もされているようで、以下のページでも、欧州の事例を引き合いに出しながら、EVのさらなる普及に期待を寄せています。
ただ、EVでCO2排出量が減るといわれても、それはどの程度?とも思いますし、産業革命前の地球の人口が10億程度だったことを考えると、焼け石に水かなという観測も否定しがたい。
さらに、当たり前ですが、CO2を排出するのは車だけじゃない。アフリカの膨大な人口が今後さらに近代的な都市生活に適応していけば、消費するエネルギーも増加の一途をたどるでしょうし、昨今話題沸騰の生成AIにしても、それを動かすのには莫大な電力がいる。電源構成的に、全部クリーンエネルギーにできるわけでもないでしょうし、化石燃料の消費はやはりまだまだ続くものと考えなければならない。産業革命前と比べ、人口とエネルギー需要が爆増した経緯というのを踏まえると、どれだけEVや脱炭素で頑張っても、地球環境をクールダウンさせる上では、有意な影響力とはならないように思うんですよね(効果はあったとしても小さそう)。
人知の過信?
関連のページをネットサーフィンしていると、あるTBSの報道番組で、東大准教授の斎藤幸平氏が次のような発言をしているのが目に留まりました。
「人間はバカである」という斎藤氏の「知見」には僕も完全に同意するんですが、CO2を人間の努力で減らせるはずだという見立てについては、どうなんでしょうか。
どちらかというと、人類の「バカさ」は、対症療法的な適応策に奔ることに表れているというよりも、自然環境や人間社会の複雑さを捨象して、人知で環境をコントロールできるはずだとナイーブに発想することにおいていっそう顕著に表れているとみるべきな気もします。
もちろん、最初に「人間はバカ」と断っておくことで、どれだけバカを晒しても免責される論法を駆使しえている点では、斎藤幸平氏もそれなりに賢いのだなと感心せずにはいられませんが。
ともあれ、最初に取り上げた櫻井氏にしても、科学の「厳密な手続き」を重視する謙虚な姿勢を示しつつも、発言や文章の端々から、「正しい手続きを踏むことで正しい答えが得られ、それを正しく適用させれば世の中きっと良くなるはず」という素朴な信念が漏れ出ているんですよね。そしてそれは、人知を過信したカルト的言説とそう遠くない位相にあるようにも思われる、と。
ほんとうに地球や人類の将来が不安なのであれば、カネと時間のかかる気候変動研究とかじゃなくて、仏教にでも帰依して個人的に生き方を変えていく方がよほど「コスパがいい」のではないか。軋轢も誤解も最小化できるし、割とマジでオススメです。