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なぜ労働はなくならないか、なぜ「仕事」はブルシット化してでも生き延びようとするのか(雑記)
たとえばこんな問題設定を念頭に、散歩しながら労働と現代社会についてあれこれ考えてみたんですが、
衣食住足りても、というか足りれば足りるほど、人間の余分な精神性がより強く浮かび上がってきて意識されるので、バランスを欠いて神経症的に情報や記号に従属し、それ自体は実在しない欲望とか不安に左右されやすくなってしまう。
人に合わせよう、ママ友界隈に乗り遅れないようにしよう、あいつよりいい車に乗ろうと無理するから、余計に働かないといけなくなるし、身の丈に合わないことをしていると借金も背負いがちになるので、ますますたくさん働かないといけなくなる。各種企業も(サービス業で他に特にやることもないので)、ご親切にローンとかリボ払いみたいなオプションを用意してくれるのでなおさら。
欲望や不安に踊らされるのが良くない、不健全だということは皆わかっているので、今日のような世界では、当然のようにベーシックインカムの構想が提案されたりするわけですが、
そうやって暇ができればますます人間は自分の余分な精神性を持て余すようになるので、欲望や不安をコントロールできず、結局たくさん働きに出る顛末になる気がします。
その点では、今日のブルシット・ジョブ社会は、問題じゃなくて答えである可能性すらある。衣食住を解決した人類は、多かれ少なかれこういう過剰労働社会に収束していくんだと仮に考えておく。
さしあたり、なんだかんだで人間は労働から逃れることができない、その具体的局面は、以下のような文脈や概念のもとで現象してくる場合が多いように思います。
戦争(「正戦」から「仲間を救うため」の戦争へ)
宇宙開発
感染症(ウイルスの脅威を針小棒大に煽る)
気候変動(終末論)
「借金」
「性愛」
情報社会(他者の欲望に感染)
生涯学習(生涯かけて教育産業にお金を落とし続ける)
雑多に、思いついたまま挙げてみましたが、結局、これらの場面、場面で、それぞれ違う仕方で「解決すべき問題」っていうのが切迫感をもって設定され立ち現れてくるので、「やっぱ働かないとなあ」となってくるんですよね。逆に、これら(の煽り)が全く存在しない世界を構想できるなら、そのとき初めて人類は労働から解放されるのかもしれませんが。
「そんなに働くな、なんなら、全く働かないのがむしろ倫理的である」
とズバッと言いたくもなるんですが、
人間は、実質的に意味のない仕事であっても、それぞれの状況に「被投」されていて、それを具体的にいうと、借金だったり戦争だったりするわけです。
マトリョーシカみたいに、9割方問題が解決されても、残りの1割の部分を新たに100%と見立てて、今度はそれを80点、90点にしていこうとセコい立ち回りをする。10%の中に100%があり、それがいいとこまで来たらまた新しい枠が顔を出してくる。実存とは「微分」である。
これ、持続可能性でもあると思う。9割解決されてるって思うより、いやいや、95点にできる、いやもっと99点にできる、いやいや、万が一のことがあったらいけない、つまり10000が9999になることすら許されない!・・といったふうにどんどん瑣末で細かいことに必死になれるっていうのは、人間が人間らしく生きていくための、つまり人間的実存の持続可能性の条件でもあるんだと、さしあたりこう考えてみたい気もします。