『シン・ニホン』がつくり出してくれた転機
32年間、兄に聞けなかったことがあった。父が亡くなって兄が家業を継ぐ決意をした時の想いを。ずっと気になっていたが、触れてはいけないような気がしていたから。
昨年、秋晴れのもと、82才になる母と私たち兄弟3人が兵庫にある亡き父の墓前に揃った。兄と母は地元の兵庫、私は徳島、弟は東京からそれぞれ駆けつけた。みんなで会うのは何年ぶりだろう。その日の夜、兄と私で実家の近くの焼肉屋で食事をした。2人でお酒を飲みながら話したのは、お互い50才を過ぎたのに、もしかしたら初めてかもしれない。
事業を営んでいた父が平成元年3月に亡くなった。2年前から2度目のガンとの闘病生活の末だった。兄は、京都の大学を卒業した後は、留学して物理学の研究者になりたいとの希望を周囲に伝えていた。周りからの勧めもあり私が事業を継ぐ決意を固めていた。父が亡くなったとき、兄は大学卒業間際、私は大学2年から3年に進級するタイミングであったが、中退して家業を継ぐつもりだった。父の葬儀の後、兄が「大学を卒業したら家業を継ぐ」と宣言していた事を人づてに知った。2年後に大学を卒業した私はメーカーに就職した。「あの時、どういう気持ちで父の事業の後を継ぐ決意をしたのだろう」と思いながらも32年間、兄とはその事について言葉を交わす機会がなかった。
食事も終わりに近づいた頃、思い切ってその事について切り出した。近づいていてはいけない扉を開けるような感覚だった。兄は当時の心境を静かに語ってくれた。
私と大学への進学を決めたばかりの末弟の学費のこと、母親のこと、事業のこと、様々熟慮の上で長男として決意をしていたのが分かった。多くの借金があった事や、ある従業員の謀略によって社長の座から引きずり降ろされようとされていた事も聞いた。学者になる夢を諦めて家業を継いで言葉にできない程の辛労を乗り越えてきた事を知った。
全てを一身に背負わせてしまったという申し訳なさ、私の学費2年分だけでなく、弟の4年間分をも考えると感謝しかない。家業を継いでから何年間も兄は英語と数学、物理の勉強をつづけていた。大学の夏休みに実家に帰省する度に、英語と数学・物理の本が増えていた。夢をあきらめきれなかったのかもしれない。忸怩たる思いをしていたことと思う。
兄との対話は続く。兄の長男は現在高校生。兄の息子らしく、数学・物理が得意で、その道に進みたいと言っているというから驚きだ。嬉しかった。思い切って「息子には家業は継がせるのか」と聞いてみた。兄は「息子の意志に任せる。継ぎたくなければ、継がなくてもいい。事業を売却する事になるかなぁ。でも、お前がやりたいならやってもいい」
自分が歩んできた苦労や思いをさせたくないのかもしれない。同時に息子の未来を自分と重ねて夢を託しているようにも思えた。もしかしたら、仮に事業を売却した後、32年前の気持ちに立ち戻って自分のやりたかった道を再び歩み出すんじゃないかとも思った。どれも力強さを感じる。
兄との会話は、ちょうど、安宅和人さんの『シン・ニホン』を読んだ直後だった。本を読みながら、日本の現状の理解が深まり未来への危機感を高めていた。自らの事として捉えようと考えていた。未来のために自分には何ができるのか?人生100年時代、自分はこの先、キャリアをどうしていくのかを真剣に考えていた。
そんな中での兄との3時間ほどの会話は、未来の事を自分ごととして捉え、やらねばならぬ事に気付かせてくれた。兄は明らかに未来を見据えて行動を起していた。私はそれから身近な所から着手する事を考えた。目の前の架空ではない現実の目の前の事に取り組まずして、残すに値する未来は創ることは出来ない。職場にい於いても、大学生の2人の娘にも、未来を託す若者をどうやって応援するべきか。自らはどう学び続けるか。
早速、職場で『シン・ニホン』の話をした。「未来の為に仕事の1~2割の時間を割こう」と提言した。一緒にテーマを考え、ともに活動をはじめた。離れて暮らしている2人の娘と、それぞれ将来の事を語り合った。将来の夢、やりたい事、不安など聞いた。今も継続的にzoomを使って、一緒に考える時間をつくっている。これこそが『シン・ニホン』を自分ごととして捉え、行動する事だと思った。
「未来は目指し、創り出すものだ」
「若さは才能であり、1日1日と目減りしていくリソースと考えるべきだ。僕らミドルシニア層がこの若い人たちの挑戦を妨げることなくサポートしていくことが、どれほど大切なミッションか」
「未来は若者たちのもの」
『シン・ニホン』には、多くの箴言がある。その言葉に触れて、自らを奮い立たせる事ができる。人生の転機をつくる本だと思う。『シン・ニホン』を読んだ直後、兄に32年前の事を聞き未来について語り合えたのは偶然では無い。『シン・ニホン』を読んだからこそ、ずっと思っていたことを聞け、過去をポジティブに捉えることができたと思っている。そして自らを決意に起たせることができた。
以前から大切にしてきた2つの事がある。1つは人生に訪れる転機を建設的に捉える事。転機の捉え方次第でその人の生き様が変化していく。2つ目は、自ら転機を作りだす事。ダニエル・ピンクが説く「時間的ランドマーク」のうちの「個人的ランドマーク」を転機として自らどう作るか。『シン・ニホン』には転機を作り出す力がある。後は自分次第だ。
1年前に異動の辞令を受け、仕事のフィールドを、29年続いていた東京から徳島に移した。この人生の転機を今は前向きに捉えている。高校生から書き続けている日記は、昨秋の兄との出来事以来、未来志向の決意の言葉で毎日締めくくられている。これが残すに値する未来を創りだす為の思考のアップデートであり、そこから生まれる行動こそが、自身が提供できる新しい価値なのだ。新しい物語りを始めよう。
自ら設定した未来のためのプロジェクトのスタートの号砲は胸中で静かに鳴り響いていた。自分版『シン・ニホン』の第7章を歩み出している。