「冷徹な悪魔」ってロマンティック
冷徹な悪魔になれれば、浮世のあれこれに悩まされなくなりそうなイメージがある。ちょっとした超越感とでもいおうか。
ロジックの王様は数学。
数学は、高校生レベルの参考書を眺めているだけでも、私は、人間の日常生活からは遠いものだと感じてしまう。多分、結構多くの人が似たような感覚を覚えるのではないだろうか?
化学や物理の教科書も似たようなものだ。
とはいえ、私たちが現在享受している類の文明って、数学や物理や化学の礎がなければ成り立っていないはず。つまり、人間の日常生活から遠いものであるわけがない。
数式や物理の法則が聖なるものとして形容されることがないわけではないけれど、多くの人々にとって聖なるものとは、もっともっと曖昧でミステリアスなものだ。
人間はその潜在能力の何割も使えていない。とか。(北斗神拳!?)
ロマンティシズムが、現代の科学者たちから警戒(時には軽蔑)されるのは、懐古趣味というよりも曖昧さだろう。
曖昧だからこそ多くの人が好きなように思いを描くことができる。聖なるものも。
人間の英知というものは捨てたものではなくて、曖昧さだって論理で解析ができる。
とはいえ、多くの人間にとって大切なものだから、曖昧さって撲滅なんて目指さない方がいいと、私は信じている。
端緒には曖昧さありき。
それをロジックで解析したい人はそうすればいい。
事実、歴史が証明している通り、それで多くの人々が利益を享受しているわけだし。
大切なことは、ロジックは様々な現世利益をもたらすところにこそ意味があるというわけではない、と理解すること。
総体として曖昧さなしでは生きられない人間の営みの一つだ、ということ。
ロジックは冷たいかもしれない。
それでも熱い血の通った人間の様々な営みの一つ。
冷っとするからこそ気になる。
気になるから詰めてみる。ロジック様に従って正確に。正確に。
そこに宿っているのは冷徹さではなくて、熱い血潮。
ロジック様への無条件の服従ではないのだ。
曖昧さをどのようにマネージするのがベターだろうか?
その問いは全くもって人間的であったかいものであるはずだろう。
1と0とではなく、どちらかに分かれる前の状態(潜在的性向)をつかみたいと思うのも、分けてお終いってことじゃないことが分かっているから。
エモーションもリーズンも丸っとまとめて人間だ。そんなことも分かっている。
けれども丸っとまとめて、だけじゃあ曖昧過ぎる。そいつが一体どうなっているのか?どう変動するのか?知りたいじゃないですか。
1と0と潜在性というような全体を知ろうと思えば、微分だって必要だ。数学が積み重ねているように正確に。
量子コンピューターに関する記事を読みながら、そんなことを感じたのでした。
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