今さらながら

コミュニケーションにおいて何が大事か?

伝えたい何か。

現代はパフォーマンス社会だ。

故スティーヴ・ジョブス氏の新製品発表会?、TED。

私が長らく博士号取るために属していたアカデミック界隈も。

故ジョン・マケイン氏の葬儀。故アレサ・フランクリン氏の追悼イベント。

今朝もTVでやってたパフォーマンスの数々。

追悼している人々からは怒られちゃうだろうけれど、リチュアル(儀式)というよりはもはやパフォーマンスだ。

自分の故人を悼む気持ちはピュアで本心からのものだと主張したくなる気持ちは分からないではないが、それって人の世にとってあんまりいい結果はもたらさないだろう。

一人一人、その瞬間にしか感じ得ない感覚や感情というものはあるし、できれば全部どんなものだって尊重はしたい。

であるからこそ、あんまり表立って「本当です」なんて言わない方がいい。

パフォーマンスというと軽薄な(薄っぺらい)ニュアンスが醸し出されるけれど、だからといって全く意味がないってことはない。

世の中のありとあらゆるものをパフォーマンスと揶揄してみたところで、こちらも人の世に何かいいことがもたらされるわけでもない。

表現されたものがあれば、そのもととなるものに思いを馳せ、「ホンモノの気持ち」があったとしたって、それが完璧にパフォームできる保証はない。

それでいいんじゃないのか?ということ。

論理がひねくれて分かりにくいのでまとめると、私たちが容易に評価できる見た目(パフォーマンス)だけでは全ては理解できないが、見た目という入り口がなければより深いところにあるものに辿り着くこともない、ということだ。

それでもなお、どっちが大事か?と問われるなら、私は、伝えたい何か、と答える。

それがあるからパフォーマンスの方法だって考える。

どうやったら伝わるのか?

あくまでもパフォーマンスは目的ではなくて手段だ。

つまり、現代はパフォーマンス自体が目的化してしまっているということだ。

なぜそうなるのか?

伝えたいことなんてあるんだかないんだか判然とはしない。

パフォームっておいて、あとから「私のメッセージはこれこれです」なんていくらでも騙れる。

パフォーマンスのみでしか評価しないんだから益々そうなる。

これはでっかくて分厚い壁だ。

私たち一人ひとりの内側では、到底言葉や数式や踊りや音楽や絵や彫刻、その他諸々などでは語りつくせないものがうごめきまくっている。

簡単に「私の今の気持ちはこれこれです」なんて言ってしまえない程。

ようするに、口ごもったり、引きこもったり、中々パフォームできない方が圧倒的に多い。

多様なパフォーマンスの技術は、だからこそ重要だ。

でも待てよ。

あんまり「伝えたい何か」とかって強調しない方がいいんじゃないか?

そもそも「何か」があるからって、必ずしもそれが伝えなきゃならないこととは限るまい。

じゃあ「伝えなきゃならないこと」「伝えた方がいいこと」ってのは何なんだろう?

ものすごく乱暴にまとめているように聞こえるかもしれないけれど、私は、自分以外の誰か、何かのためになる、もっといえば、死活問題に関わるからこそ、伝えなきゃならないんだと考えている。

自分以外の誰か、何か。

論理的に考えても、「自分」なんてものは一体どこからどこまでなのか一人一人が把握できる保証なんて何もないわけだから、「自分自身のため」に何かを行うなんてことは厳密に考えれば考えるほど不可能だ。

パフォーマンス社会がお寒い理由がこれでお分かりいただけるだろう。

自らがその自由意思なるもので考え、アレンジしたパフォーマンスは合理的に評価されうる。よい評価を得たければ、勉強し、訓練し、パフォーマンスの技量を上げればよい。

自分のためにエナジーを投入することが当然のこととして広く浸透してしまっていて、「自分のため」なんてことが全く何ら根拠がないってことに気付いていない。

「他人のためが自分のため」なぁんてのもよく聞くけれど、全く根拠レスだ。

ついでに付け加えさせてもらえば、他人のためといったって、本当に他人の役に立つかどうかなんてことは分からない。

それでいい。その方がいいのだ。

結果(例:役に立つ)が分かっててやることってろくでもないことになりやすい。

「役に立つ」とか「いいことだ」とかいう前提は押し付けになってしまいがち。

どうなるか分からない方が注意深くいられるものなのさ。

「この人の生き死にに関わることやー」と思ってアクション起こしたとしよう。

一般的に「死ね」と思って行動起こすことは少ないわけなんだけども、「生かす」といったって、ゼッタイいいことなのかどうかは実は分からないことの方が圧倒的に多い。

けど、おまんま食べさせたり、学校行かせたりするのに、あんまり迷うことはない。迷わないぐらいならいいんだけどさ。。。「あなたのためにやってあげてる」感が強まるとね。。。実際ためになってたとしたって、ろくなことにゃならんもんね。

押し付けてるつもりなんて一切なかったとしても、あんまり信じすぎるのもどうか?ということ。ご飯食べなきゃ死んじゃうじゃん?ってことはご飯たべさせることが悪い事であるわけはない。それでもさ。食べさせるっつったってなんでそれがあんたでなきゃなんないのさ?とかね。。。他の人でもいいんだけど、行きがかり上やらせていただいております。ってね。多少ひかえる気持ちってあっていいというのが私の考え。

パフォーマンスが私たちの日々をリードしていくことは変えられない。

でも、そんな風にしかとりあえずの方法が思いつかない、実践できないんだからさ、パフォーマンスの良し悪しをあまりに真剣に取り上げすぎる(例:パフォーマンスの点数の付け方を厳密に厳密に突き詰めて、良し悪しを数値化しようとする)のはよした方がいい。

どちらかというと哀れなもんだと嗤うぐらいでちょうどいい。

人の世ってのはね、常に上を目指し(た気になっ)て生き続けられる人間だけで成り立っているんではないんだ。

そういう概ね社会の上層で割と長期に安全に生きられる人間であったって、そうでない人間とシェアしている弱さってものはある。必死こいて上層にしがみつこうとしていて、それに気づきもしないって点では、そうしたあらゆる人間に共通の弱さってものが、かえって際立っているんだともいえる。

コミュニケーションにおいて伝えるべき何かというものは、自分の何かではないんだろう。伝えるというよりも他者・他物へのはたらきかけ、と言った方が相応しい。

何のため?かはあまりはっきりとは分からない。

でも何となくでも気になるからはたらきかける。

何となくとか、はっきりと目的などが分かってないんだから、せめて礼儀は弁えるべきだろう。

あまり明瞭に定義できない一人一人の何か。そうしたものの存在価値をできるだけ認めるためにも、「定義できないんじゃ意味ないね」という風潮は最小限にまで弱められた方がいい。

言葉なんてその最たるものだけど、私たち人間にとって把握しやすいカタチあるものって、授かりものなんだ。間違っても、どっかの誰かが、協力し合いながらであっても、作り出したものではない。

ならば、数量的にであろうが、質的にであろうが、より多くの人々に把握しやすいようなカタチを与えることができたなら、真っ先にくるのは感謝の気持ちだろう。カップや賞状をもらった後の感謝なんて鼻白むだけだ。

さらに言うなら、今この時点に限っては、割と多くの人々の間で共通理解が得られやすいってだけで、それに負けないぐらい多くの人間にとっては、全く意味不明ってこともあり得る。それでも、まずは何らかの整理が必要なので、ちょっと我慢してください。そうことわるぐらいの礼儀はあっていい。

まあそんなの面倒くさ過ぎてやってられない。

今のところ人間の知性なんてその程度のものなんだ。

その中でちょいと秀でていたところで、何も自慢できることなんてないし、人さまに「こうしさえすればいい」なんて能書き垂れていいようなものだってあるわけがない。

厳密に精緻に刻んでいくべきものは、分からないとは言ったって自分自身だ。

ネットワーキングだとかで寄ってたかってカタチを決めて、多くの人間をだまくらかしやすいようにファブリケーションしておいて、「お互い立派にやり遂げましたなー」なんて自画自賛していては。。。私たちはその持っている価値を評価することなんて全くできはしないだろう。


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