他人の話がとにかく面白いと思えるには?
修業が必要。
どんな?
自己内対話+他者観察+論理・合理的分析
自己に向き合うだけでもダメで、他人に合わせるだけでもダメで、客観的分析だけでもダメ
「自己に向き合う」はとかく甘めになりやすい。あまり面白くもないし。だって、自分のことなんてお腹一杯ってぐらい、色々な感覚味わわされるわけだし。結果、「はー。向き合っちゃったなー。わたち。」みたいなナルシシズムに陥りやすい。
「他人にとりあえず合わせておく」というのは、処世術としても大事だし、「他人のふり見て我がふり直」せたらさらにいい。けど、特に「我がふり」にまで落とし込むには、結構冷徹な要素要素の差異分析が必要になる。
「客観分析」が思考の王者っぽく思えるのも無理はない。ただこれ、「王者」なので、かなり綿密な正確さが求められる。真か?偽か?因果関係と連関との違い。統計的有意性まで駆使して、地道な実証・理論仮説分析が永遠に続けられる。永遠に。つまり、「王者」はいつも「王者への道の途中」でしかない。これは、単に認めるだけでは不十分で、これがために、煩わしい政治関係・人間関係とお付き合いせねばならない、と知り、実際お付き合いせねばならない。
結局、客観的に観察する自分が何者で、どういった状況に置かれているか?まで知る必要がある。単に、観察者の存在とか、その物理現象への介入とかを、考慮に入れた分析手法を開発するだけでは不十分である所以。観察者毎の性質・その時々のコンディションの違いや、観察者が行う単なる観察という介入ではあるが、その時々に異なるであろう影響などまで考慮する必要がある。
私が「自己内対話」に重きを置く理由は、「他人の振りを見て合わせる」場合も、「客観分析」も、「合わせる自分、観察する自分ってのはナニモノ?」ということをかなり強烈に意識していないと、どうしても「責任逃れ」的考え方が横行してしまうように感じるから。
「わかっちゃいるけども合わせざるをえない」で留まらず、そうではあっても”結局のところ「合わせとこう」と決めたのは自分”という納得の仕方。
「専門書にこう書いてます」、「証拠出てます」、ではなくて、「この状況では最適と思われる科学的客観的根拠を選ばせてもらってますが、ご懸念あれば何なりと。。。」ぐらいに世間とお付き合いする気持ちが必要。
このへんてこりんな図は、3つの思考領域というか、知識創造の際の重点の違いを表すために私が考案したもの。
特に、重点は違えども、常に3つの異なる方法は必ず駆使されていて、よってほぼ永遠にぐるぐる堂々巡りをさせられる様子を表現しようとしている。
長くなるのでとりあえず科学(客観分析、青色のパーツたち)について説明すると、青色は結局のところ「モノ」。つまり、私たちが日常的にほぼ直観的に「見ている」と感じるモノ。数であるとか量的なものであったり、デカさ、形、色、機械っぽさに自然っぽさなど質的なもの。比較的簡単に名前が思い浮かぶもの。これらは、当然個人個人の性質や能力や持っている知識により様々ではあれど、あくまでも「私」が「見る(感じる)」ものたちなので、様々な証拠や論理整合性なども踏まえつつ、より正確で、したがって、人によって違う、ではなく、どんな人にも等しく「名前」として受け入れざるをえない、ユニバーサルな定義確立が目指されることになる。(実際にその厳密な検証作業に従事するのは専門性を備えた人々に限られてしまうのだけれども)
「モノ」なのに何で「Conceptual networks of action」なのか?
私たちは「モノ」を直観的に認識しているけど、それが可能となるためには様々な学習をしている。つまり、カメラのレンズがとらえる光の波長がCCDで捉えられる、ような感じで、モノを認識したり区別したりしているのではないということ。一見静的に見える「モノ」やその性質たちも、動的に捉えざるを得ない。動的情報、常に千変万化する情報から、より安定的なもの、あてにならないものなどを選別したり、組み合わせたりしながら、「モノ」の世界が確立されていく。
では動的な情報とは何か?
「Sequencing in order」。いろんな「モノ」たちをとある順序(並べ替え不可)につなぎ合わせること。平たく言えば「モノ」たちをActionの中で理解しようとすること。
ただ、そもそもActionというのは、主体が想定される。よってこれはメタファー。何のメタファーなのか?
私たちが様々な記号を用いることができるようになっている、そのプロセス。
メタファーというと、言葉の世界の、「意味=名前」関係の割と創造的置き替え(例:「大地」を「母」と言ったり、「鋼の体」と言ったり)のお話と思われるけれど、この創造的置き替えが可能となるには、量・質ともに一定の情報が蓄積されて、「いろんな人々と共有」されなければならない。
「いろんな人々と共有」。これが大事。動的情報には、比較的安定的なものとそうでないものとがあり、「モノ」として認識されるのはおそらく前者由来の情報。個体レベルではそういうことなのだが、もっと大事なのは、「どうも同じ感じでモノを見ているらしい」存在が実際に身近にいる、ということ。
考えてみれば当然過ぎることなのだが、たった一人では記号なんて必要性低いのだ。裏を返せば、記号は「他人の振りを見ること」から始まっているともいえる。つまり、個人レベルでの「モノ」っぽい情報を蓄積しつつ、他方、それらを元に「モノ」って言ってしまっていいか?判断するのに、自分以外の他者がその「モノ」らしいものとどのように関わっているかを見ることも基準としている。記号というのは、とある「モノ」っぽいもののカタチをなんとなく感知することもさることながら、自分と似たような者が「モノ」とどのように関連しているのか?といういわば”動きのカタチ”も感知するところから発展する。
科学的考察・分析の第一歩ともいえる「客観的観察」。しかしその対象、つまり「モノ」を、とある性質をもったものと認識できるまでのプロセスというのが、既に、自分以外で主体として振る舞う(らしい)者の存在、及び、想像上であったとしても、そういった者との交流が含まれている。つまり、私たちの感覚器官や脳みそを中心とした神経系の器官が時々刻々扱っている動的情報の信号というものは、私たちが主体であるとか客体であるとかを明確に区別できるよりもかなり以前から、他者との交流に伴う情報が含まれ、かつ、重要な役割を果たしているということ。で。なんでそんなことが起こるのかというと全て、「観察者」たる私たち(図中の赤い丸)が複数存在する(独りぼっちじゃない)という事実に起因する。
日常生活においては、他者の話というのは、面白いものもあればそうでないものもある。面白ければ問題ないのだけれど、面白くなければ、それはかなりあっさりと、ほぼなかったかの如く扱われる。なかったかの如く扱われるというのは無用なコンフリクトが起こらないという点ではましな気もするのだが、実はそうでもない。やっぱりどこかの誰かがこの世に存在している証明なのだし、注意ぐらい向けてもよさそうなものだ。少なくとも似たような境遇にあるような人々同士であるならば。。。
コンフリクトが起こるような場合も含めて、速攻で他者の話を否定するのではなく、例えば何であからさまな事実関係の誤認が起こるのか?とか、何でこんなに面白くないのか?とか、他者の事情に思いを馳せることができるなら、世の中もっと住みやすくなるのではないか?と夢のようなことを考えていて、そのためには、まず、図の赤い丸の存在を強烈に脳裏に焼き付けるところから始めなければならないのではないか?と考えているのです。