対話シナリオ
2018年01月27日
【やさしい社会】で放送予定
人間って深いよね。
うん。
最近小説家同士のインタビュー記事を読んで、その中で、人間のこと、深いっていうよりも、いろんな面がある、という言い方をしていて、具体的には「多宇宙」みたいな。Uni-verseじゃなくて、Multi-verseと。
ふーん。
私は案外こういう見方に盲点があるんじゃないかと感じたのです。
なんで?
やっぱり人間って、いくら社会的な動物だとか、他者との共感を得る能力がある、とかいったって、個々人は独立していると思うのよ。
ふむ。
個々人は独立っていうと、なんか冷たい感じもするだろうし、天上天下唯我独尊、、のようなちょっと傲慢な風味も出る。個々人の合理性への過信、関係性への配慮欠如とかね。けれども、厳然たる事実として、生きている人間って、やっぱり個人単位かなと。個々人が頭の中でどんなイメージを描こうがね。
インタビューの小説家さんはともにアメリカ育ち。インタビュアーは多分白人で生粋。インタビューを受けていた方は韓国生まれだけれどもほぼアメリカで生きてきた方。まあいずれにせよアメリカっぽいなと。
Multi-verseはインタビューを受けている方が言った言葉。
生まれは韓国なんだけれどもどうやら北朝鮮の方にルーツがあるという感じなので、中々複雑な系譜があって、本人もそれを意識していると言っていた。
そんな人でもMulti-verseなんだなーと。
ふむ。
Multi-verseとか、多面性とかって、なんか中途半端な感じしない?
何が?
個々人の詰め。
詰め?
そう。なんか外側重視というかね。個々人の内奥へ深く入っていかない感じ。
外側重視っていうのはそのまんま。観察して分析する。いわゆる科学ね。
科学ってさ。イージーなのよ。知的活動として。だから放っておいてもどんどん発展はする。やっぱ、難しい方放っておいちゃいかんだろうと。内奥へ入っていくやつね。
内奥。。。
そう。例えば人間は社会的な動物だなんてことも、どんどんと個々人が自身のことを掘り下げることによって悟れる。「ああそっか!私はいろんな人とともに生きているのだ!」っていうね。
掘り下げる?
外へのアプローチというのは、調べたり分析したりするのが簡単なだけでなく、分かったらそれを他人にも伝えやすい。「ほれ。こうなっとる。(だからあんた方はそれに合わせて行動なんかを修正すべき。当然するでしょ?)」みたいに。つまりは、分かったら分かったで、アドバイスしたり教えたりしたくなる。いやむしろ、する方が正しい。となりやすい。
へぇー。そういうもんかな?
観察して分かったことがあったら教えてあげるというのは何もいけないことではない。けれども、教えてもらう立場のことを思うと無制限にいいこととも言えない。
なんで?
それぞれの人々が考える時間を奪ってしまうから。
時間?
例え結果は同じだとしても、考える過程というのは人それぞれ。これが見過ごされると70億からの人間がそれぞれ生きている意味が大幅に減じられてしまう。
生きている意味?
生きるってさ、問題集解いて答えが合っていればいいわけじゃない。問題集の答えはほぼ一つ。誰が解こうが答えは同じ。それですら答えに至る道筋は人それぞれ違ったっていいわけだ。
ところが一旦学校を出てしまえば、たった一つの答えなんてどこにも存在しない。それなのに、あたかもあるかのように皆が振る舞うようになっている。
大学は出た方がいい。就職はして当たり前。お金稼がなどうするの?ってね。
何がいい方か?なんてのは時代ごとに変わりもするけれども、そうしたあやふやなものだって、私たちはたいがいいい方とは何か?ぐらいは周り見渡すなりしてなんとなく分かる。
分かるってことは、個々人がそれぞれのやり方でとある制限はかけているということ。
なら、一人一人が勝手気ままに考えたところで、心配するほど無秩序になんてならないはずなのさ。それぞれが「いい方」と考えているものに世の中の価値観をひっくり返すような違いなんてないわけだから。
おまけに現代なんて、国家権力が定めた法律とか警察権力とかの枠内で生活させらているわけで、考えるぐらい自由にやらせたって大した問題なんて起こらないはずなのよね。
Multi-verseとか外側の多面性とかにばかり意識が集中するってことは、「いい方が分かってる?そんな証拠どこにあるよ?きちんと調べてみようぜ!」という方面のお話で、放っておいてもなんとなく秩序が保たれる原動力のようなものになんてほとんど注意が向いていないということ。信用していないともいえる。人間のことを。
もちろん目に見える事柄から分析することだって必要。でも、分析して分かったことをどう伝えるか?はものすごく大切で、どう伝えるべきか?を考えるには個々人がそれぞれのやり方で考えたり考えなかったりする仕組みを弁えていなければならない。
目に見える事柄から分析して分かったことの伝え方が大切だというのは、伝えられること(分析の結果分かったこと)は、思いっきり正しいことが多いから。正しいことって反駁の余地がないわけ。有無を言わせない感じね。
正しいんだったらさ、待ってあげたって構わないと思わない?急かさないでさ。
どう考えたっていい。ともかく自分なりに考えてみなさい。結局到達する地点は「ここ」なんだけどね。という感じ。
人間だけでなくて、世の中のありとあらゆるものが多面だ多面だって言い募ることのリスクって、その辺の余裕のなさ。はっきり言ってしまうと、分析して分かった分かった言う割りには、言っている本人がそれほど自信持てていないのさ。
おまけに、新たな面、気付かれていない面なんて探せばほぼ無限に見つかるのよね。
とはいえ、見つけて証明するなんて誰にでもできる芸当ではない。できるならそれを立派といってもいい。
でも、見つけられる人って普通どうします?「おっしゃ!証明できた!」で?伝え方?証明されてんだ。誰が見たって同じこと。つまり、伝わるかどうかなんてどうでもいいというか、伝わんないのは受け取る方が悪いんでしょ?ってことで、要するに自分自身の勲章さえ得られればOK、ということ。新たな面を探そうとする動機だってたいがいそんなもんなわけ。
よく社会貢献だとか世代間にわたる貢献だとか言われて、それが無私の証明みたいに扱われるけどさ、公共の便益に対する貢献って、文字通り自他の境界を超えるのよ。つまりは、一人一人が自分の勲章に意識が向いている時点で、便益ではなくて害悪を及ぼしているわけだ。
個々人が自身を掘り下げてみて悟る他者との繋がりが大切というのはそういうこと。
特に、社会の諸問題にセンシティヴで、とある問題に対してアクションがとれるような人々。
どうすればそのアクションが自分自身のためだけじゃないと証明できるか?
今の流行りは、アクションそれ自体が証明する、というもの。
ナイーヴ過ぎる。いや傲慢ともいえる。
自動で証明なんてあり得ないし、「勝手に読みやがれ」という感じで、読む人それぞれに読み方がある、というような猶予が与えられていない。そんなんで公共の便益だとか世代を超えるケアだなんて、チャンチャラ可笑しい。
誰もが善行と認めるようなアクションだって、それが伝えるメッセージについては注意が必要なのさ。
じゃあ具体的にどうすればいいと?
今話したアクションの意味の例が示す通り、自分自身のやることなすことの意味を考えることは最低限必要だろうね。
まだ具体的じゃないような。。。
そうだね。最近じゃあともかく具体的にアクションで示そうとする傾向が強いわけだから、そのアクションの影響が及ぶであろう人々のことを考えることからスタートするのがいいかもしれない。
社会貢献なんて世間的に悪いことなわけがないんだけど、人対人の次元では話は別と考えることかな?
人対人?
社会貢献だろうが何とか定理の証明だろうが、正しいんだからそのまま受け取りやがれ!みたいな態度は人対人の関係なら普通とりにくいってことでしょう。
まあ確かに人の生身感みたいなのが感じられるのとそうでないのとではとる態度も違ってくるというのはあるね。
また多面性とかMulti-verseの話に戻るけど、宇宙物理の世界では、宇宙は私たちが住んでいる宇宙だけではないかもしれない、という話も出ている。まあ真偽のほどはまだ分からないけれど、私たち個々の人間を見る時には、あんまりMulti-verseなんて前提にはしない方がいいと私は思うのよね。
安っぽい相対論に陥って、安易に「何でもありじゃん」にならないためってのもあるけれど、肝は、個々人を一つの宇宙Uni-verseとして見るということ。つまりは「たっくさん面があって、お互い全部は分かり合えないよねー」ではなくて、「多分全部なんて分かり合えはしないんだけど、お互いそれぞれ唯一無二の個人(一度きりの人生)だし、そこは尊重し合おうね」ということ。
社会貢献アクションにしても、科学的な分析にしても、こう、奥歯をギリっと噛み締めるというか、Grudgingというか、なんぼ正しくてもカバーし切れてないところがあるよなー、ということに痛みというか、悲しみというか、悔しさみたいなものを感じて欲しいのよね。
反省とはちょっと違うのよね?
そうそう。違う。反省なんてそんな軽々しく「やってます」とか言わない、言えないってのが現実だと思うのよね。特に忙しい現代。次々やってくるものをなんとかかんとか捌くのに手一杯でしょ。普通。
振り返って既に起きたこと、過去の行いとかを見直すにしても、その結果は忙しい皆様の助けにならなきゃね。「おらおらー。お前らも反省しやがれー。」じゃさ。。。人間関係ギスギスしちゃうよね。
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