無闇に巻き込まない
そのためにはパワーについて知る必要あり
しばし狭い穴を掘り続けてみましょう。
様々な社会問題へのアウェアネス惹起、具体的な施策のためのファンドレイジングなどを目的としたイベントは花盛り。
社会問題をダシにした、持てる者達の楽しい暇つぶし。
暇つぶしが楽しいのならまあいいか。
とも思えない。
社会問題をダシにしているところなんかがどうもいけ好かない。
他人のお庭にズケズケ踏み込んでいる感じ。
他人のお庭のこと心配するなんて。。。
ホントに自分のお庭はお留守にできるぐらい整っているんだろうか?
どっちかというと、整えなきゃいけないことが分かっていて、だから、整えるためのリソースを、他所の庭をダシにしてでも何とかして調達しようとしている感じ。他所の庭に出かけていかなくたってリソースなんて十分持ってそうなもんだけど。。。
ネットワーキングという言葉もよく聞く。
持てる者達はたいがいこぞって無批判的に「いいもの」として飛び付く。
社会はネットワークだ!つながりだ!絆だ!
事実私たちは個々人ではもはや何もできない。生きて行くのに最低限必要な衣食住を整えるのだって、各核家族単位で協力するぐらいでは無理で、各構成員たちは大小様々な組織・共同体に参画し、必要なリソースをより安定的に確保できるような体制を整えようとする。
ネットワークには信頼関係の構築・維持も暗示されている。つながれば相互理解も促進され、もって協調的互恵関係も築かれやすくなることだろう。安定的な社会、社会の繁栄のためにはネットワーキングは不可欠だ。
全く当たり前のこととして見過ごされているのが、「つながりってみんなにとって有益に違いない」という思い込み。
既に述べた通り、様々な他者とつながっていなければ、まともに生きて行くのも難しいというのは厳然たる事実。とはいえ、つながりが万人に平等に利益をもたらすか?というとそういうわけでもない。
個性というものもある。まあ百歩譲って個々人の好みであるとか拘りであるとかは取り敢えずニュートラルってことにするとしても、私たちが様々な人々と取り結ぶ関係というものは、常に対等というわけではない。スタート地点で持っているものに違いがある。また、違いがあるところにこそ、つながろうとするインセンティヴが湧く。つながりなんてものは世の中ほぼ全て不均衡で、均衡状態は動的に、かなり微妙にキープされていることの証明。
ということでフェアネス(公正さ)という概念がある。
個々人間、或は特定の集団間で違いがあるのは当然なので、せめて有利な方が不利な方を専ら搾取するようなつながり方はよそうと。
「専ら搾取」ということは、さすがに21世紀、横行しているってことはない、と言ってもいいかもしれない。
けれども。
そうした「最悪の状態ではない」という前提が、却ってフェアネスへの厳しい目を曇らせている感じもする。
ともかく、ルールに従う、というのが公正さの目安になっている。
当然大事なのはルールの内容だけでなく作り方。合意形成のプロセスともいわれるもの。
「合意形成のプロセス」なんて単語が関係者間で聞かれるようなフォーマルなシチュエーションならまだいい。とんでもない不公正は中々おおっぴらにははたらけないし。
問題はもっとインフォーマルな、日常の、ネットワーキング。
そもそもルールなんて意識しますか?
意識する必要がないほど関係者間に違いがないといえるのかもしれないけれど、全くの平等ってことはあり得ない。
でもあまり #ルールの公正さ などということが議題には上らない。
お互い平等でないことは分かっていて、共通のルール、枠組みでつながり合うことを選んでいる。
その方が現実問題として生き易いからだろう。
一方が不利をアンフェアと感じるならさすがにクレームぐらいはする。
問題は一件一件のネットワーキングではなく、積み重ね。 #経時変化 。
一旦AとBでつながって双方文句ないとしても、時間が流れれば、同じ関係者間で同じ条件であっても、常にOK、とはいかない、ということ。
でも、ネットワーキングを行う際、関係者間に示される条件が、過去の成功事例、現に機能しているネットワークの例などとともに提示されれば、ほとんど疑義が呈されることはないだろう。
ということは、もしも目先を頻繁に変えることができるなら(例:ソーシャルイベントなどと言って頻繁に異なるネットワーキングが試みられる)、企画する側はほぼ間違いなく「成功」という評価を得ることになるだろう。つなげられる側の細かい事情には関わりなく。
取り敢えず動ける側(例:ネットワーキングの企画者など)というのは、間違いなく有利な方。
有利だからこそ慈善活動をして、不利な立場に置かれている人々を支援する。
志は立派だ。
でも、行いがフェアネス促進につながるとは必ずしもいえない。
コンサルテーションが事前に持たれるのが当たり前にはなっているけれども、地味に考えてみればみるほど、サポートを受ける側の事情を全て細かく汲み取ることは難しいということが分かる。
それでもやった方がいい支援というものもあるだろう。
でも、サポートを受ける側を妥協に誘導するような支援というものは、基本的には無理にやるべきではない。
なぜなら、(1)先例になってしまう、(2)先例は、不均衡な関係を固定化させるのみならず、「モデル」となって遠く離れた他所へまで、不均衡を伝播させてしまう、そして、(3)サポートを受ける側の自律性を損なわせてしまうから。
力のある方が動けば動くほど、善意悪意に関係なく、不均衡は拡大する。
それでもなおやるだけの価値があるか?
アクティヴィストたちにはより厳密に検討してもらいたいところだ。
まあほとんど無理な相談だろうけど。。。ビジネスマインドに憑りつかれ、”やってます詐欺”を詐欺とも思わないパフォーマー達、そして、「自分たちには大したパワーなんてない」と信じ込んでいる持てる者(自称小市民)達には。。。