紹介

マガジン『道徳を読もう』

道徳と聞くと何を思い浮かべますか?

私は、道徳というと儒教的なものを思い浮かべるのですが、いかに身を処すべきか?ということでしょうか。法律・規則などのフォーマルな規範ではなく、どちらかというと、日々の心構え、といったニュアンスの方が強く感じます。

敬老。年長者・先輩を立てる。

親孝行。

嘘をつかずに正直に、誠実に生きましょう。

大声でしゃべくりまわらない。

身の処し方を律する、ということで、本能・欲望に対して抑制的ではありますが、それもまた自らの幸せのため、というのが理屈。アリストテレスも言っていた(と思う)。


(↑ちょっと違うか??)

あった!(2017/06/28)↓


私が立ち戻りたいのは、自らの幸せ。

自らの。

何人たりとも決められないし、決めてくれと頼んで「はいは~い」と二つ返事で何かしてくれたとしても、ハッピーの感覚を経験する(しない)のはそれを受け取る自分。

どんなに絶望的に思える状況にあっても、その中で自分なりの幸せの感覚を自在に呼び起こすことができるなら、生きていく上で味わう苦労も、多少なりとも対処しやすくなるのではないか。

それ以上に道徳と自らの幸せをリンクさせることで、お互いに優しくあろうとする誘因が増すのではないか?と考えています。自他の壁を曖昧にする。

そうは言ってもです。

そういう風に、解釈によって幸せを編み出したり、なるべく穏やかな社会を実現しよう、というのはあまりにも地味で多分流行らないだろう。

マテリアリズムというか、「どうやって食ってくのよ?」って質問することに人々はほぼ何のためらいも感じない今の世の中。

やはりアピールするなら、ハードコアな物質世界のお話でしょう。

ヒヒヒ。。。

「一体誰が物質世界と観念・解釈の世界との区別をつけられるのよ?」って訊きたいところだけれど、まあそれはいいや。(とかいって言葉にしてしまっているのだけれど。。。)

『「道徳ー幸せ」軸』なるもの

いろいろ考えたのですが、多分人間ってイリュージョンを見ている。「これが物質世界だ」と信じているものも含めてイリュージョン。

でも、「それ。イリュージョンですよ。」って指摘したところで何もいいことは起こらない。起こることと言えば、競争、諍い、差別、侮蔑、非人間的人間の扱い、そして戦争。。。物量で勝負の世界が待っているだけ。それもまた非情な現実といえばそれまでなのだけど。。。折角イリュージョン創れるんだし、工夫してハッピーのチャンスを増すことだってできるのではないか?いや、そういうハッピーのチャンスを増やす工夫をこそハッピーと感じられればかなりうまくいくんじゃあないのか?

イリュージョンではないハードコアな物質世界に最も近いのは、人間にとってはほとんど混沌の感覚を覚えている時に見えている世界。

混沌のままでは捨て置かないのが人間の知的欲求の源泉とも言えるので、イリュージョンへの旅立ちは避けられない。

マガジン『道徳を読もう』は、混沌からの旅立ちの地点を思い出しましょう、というのがテーマ。

人間がイリュージョンにほぼ住み続けるのは、何も、どこかに原初の地点があって、そこを出発すると永遠に戻ってこない、という類の”永遠の旅路”ではなくて、どちらかというと、物質世界と観念・解釈の世界を行ったり来たりするイメージに近い。

ハードコアな事実としては、人間も物質世界に存在しているわけなので、いかに想像力を発揮していようが、別世界へ物理的に瞬間移動したりはしない。

「行ったり来たり」も精神の作用。意識と無意識ですかね。

そもそもイリュージョンへと旅立つのも、はっきりしないものをはっきりさせるためで、別に夢を見に行くわけではない。だからこそイリュージョン(幻惑的)なのだけれど。営み自体はいたってシリアス。このシリアスさをウソにしてしまわないためにも、そのシリアスさの原因たる混沌のことも、すっかりは忘れてしまわないようにした方がいい。

「一体自分が今築き上げた説明(イリュージョン)って、何が元で探索を始めたんだっけ?」

その疑問の発端にあるのが道徳。

直観的にいい方悪い方が感じられている。

とはいえ、混沌よりもスッキリの方がいい、というのは当たり前すぎるので、また、あたかも好みの問題のようにも思えるので、一般的にはあまり道徳でいうところの善悪とは関連付けられない。

それはある意味正しく、ある意味根源的な何かを見落としている、といえる。

「混沌よりもスッキリの方がいい」は、事実ではあっても、そう言うだけでは何も始まらない。そのあとが肝心なのだから、あまり「本能的にいい方選ぶんだから間違いないでしょ?」とふんぞり返らない方がいい。というよりも。。。「選んではいない」からね。。。いい方が目の前に現れたらそれを「いい方と認識している」。ただそれだけだから。この微妙な違いの重大さについては、今後も何度となく繰り返す予定です。なんたってイリュージョンですから。私たちが過ごしている時間の大半は。

チョイス(選択肢)というものは、いつでも後付けで「あった」とされるものなのです。でも現実は巻き戻しは不可能。巻き戻しはいつだって想像上行われる、ということです。

それはさておき。

チョイスのイリュージョンとも深く関係するんだけれども、私たちの感覚というのは極めて動的です。動き続けます。より詳しく言えば、より確からしいものがありそうな方向を手探りで探索するように進み続けます。「手探りのように」がポイントで、どこまでも進み続けられる場合もあれば、ドン突きにぶつかって別の方向を探らされることもしばしばです。

そういう風に動くからこそ、振り返ってみると選択しているように見えるのです。

でも選択はしていないし、予めどのような選択肢があるのかは分かっていません。

「見落とされている根源的な何か」というのは、直観的に察知していると思われがちなパッと見の「いい方」というのも、それ以前に、手探りでどれぐらい右往左往してきたのか?、または、特に壁にぶち当たることもなく比較的スムーズにそこまできているのか?は様々でしょうが、ともかくそこに至るまでに、相当な偶然の積み重なりがあるのだ、ということです。

つまり、何かいい気分を感じているのなら、それは、何か根拠めいたものをもって選んでそうなっているのではなくて、いいものが現れた結果、それがいいものとして認識されている、より厳密にいえば、認識できているというその事実自体が既にいいこと、なのです。(でも、次の瞬間「いいこと」じゃなかった!って具合に暗転する場合もあります。)

であるならば、「いい方」を感じているな、と思ったら、次になすべきことは??

ふふゅぅ~~♪ラッキー(^^♪でハッピー

ですね。(^_-)-☆

直観的ないい方悪い方の感覚が道徳の段階へと歩を進めるためには、このハッピーの感覚が必要かつ不可欠です。つまり、ハッピーの感覚なしで続けられる混沌からよりクリアへの探索・探求は、場合によっては引き続く世代のインスピレーションの材料にはなり得ますが、往々にして害悪を及ぼす可能性の方が高いということです。個々人の感覚よりも、探索・探求の技術や、それによってもたらされる目に見えた結果の方が断然重視されるようになってしまうから。

私たちが日々何気なく感じている意味や価値というものは、偶然のハッピーを意識することで、すべて私たち一人ひとりの通り抜ける現実に紐付けられるというわけです。

ただのイリュージョンではないのです。

さて、ではいよいよ、

道徳を読むこと

についてです。

ここまでは道徳の源。混沌からイリュージョンへの出発点について分析してきましたが、出発した結果、私たちは身の回りで何を観察することになっているか?を見てみましょう。

イリュージョン創りの成果品ですね。

「何を観察しているか?」「何が観察されるか?」と言われても、まあ姿形ですよね。動いている人々の。あとは言葉とか、それ以外の創作物。機械や器具、建物なんかも成果物といえますね。

合理的実証的科学全盛の現代ですから、観察といえば、様々な性質(形、重さ/軽さ、硬さ/柔らかさ、色、味、手触り、大きさ/小ささ、等々)を、体系的に整理された定義でもって判別していきます。観察の結果微小ではあっても既存の定義とのズレが判明すれば、体系を乱さないように定義の見直し、追加などが行われていきます。

職業が科学者やエンジニアでなくとも、人は日々同じような方法で、時々刻々出会う物事、人々のあれこれを判別して整理しています。

このいわゆる合理的実証的科学的方法については、もう選びきれない、学びきれないほどの解説書が出回ってるし、学校で学ぶことも大概この方法に沿っているので、上手くできているかどうか?はさておき、多くの人々がほぼ気付かずに実践されていることでしょう。

気付かず実践ということでいえば、置かれた状況、誰と対面しているか?などによって適当かどうか?を判別する方法もありますね。これも一体どうやっているのか?知ることは面白いのですが、長くなるのでここでは話しません。

「道徳を読む」というのも、気付かずに実践されているのか?

私は「実践されている」との前提でいいのではないか?と考えています。

というか、そういう前提にしないと、、、読めないので。。。道徳。

基本的にはまず混沌がありますから、そこから少しでも混沌ではないような状態を望んでいるはずで、つまり、あんまりハッピーではない可能性が高い。

混沌混沌といっても、違う状態を指すこともできますし、人によって、場合によっては、「混ぜっ返し」を意図的に狙っていることもあり得るでしょう。でもまあそういう状態ってハッピーとは言えませんよね。とりあえず。

そんなわけでいかにノー天気で陽気そうに見えても、何らかの制限は加えられている、という前提でいきます。人はスーパーマンではありません。

何らかの制限が見定められれば、「ノー天気で陽気」の意味合いも増すというものです。

ただ、見た目ではハッピーの要素がすぐには読み取れないケースの方が多いでしょう。ですから、ステップとしては、まず、観察された人々が、一体どのような制約を受けているか?を得意の合理的実証的科学的方法で見極めて(推測して)、そんな状況だからこそ考えられうるハッピーって何だろう?と想像してみる、という流れで行きます。

読み取る制限の中でも、「こりゃまずちょっとやそっと努力したところで逃れることは不可能だろう」というものを優先します。物理的・生物学的に決まってしまっている限界とか。必ずしも先天的と言えないものでも、観察した時点でできていないことを、「頑張ればできる」という感じで安易にポジティヴな方向に考える(現状をマイナスに捉える)のも控えるべきです。

ポイントは、現に与えられた条件でハッピー気分を味わえるかどうか?を考えることなのです。

そんなことをする意味とは何?

世の中をなるべくフェアに。

どうみても様々なリソースの分布が不均衡な世の中で、一体何がフェア(公正)といえるのか?

誰もが等しく嵌められている限界として、未来は一体どうなるのか分からない、ということがあります。

これは結構キツイもんです。だから「分からない」にいろいろと質的違いを付けて、「分かる部分」を増やそうとします。その試み自体は道徳的観点からも必ずしも間違いとはいえません。が。

目的によるのです。。。。

「未来があるとは分かるのにそれが正確には分からない」からくるキツさを自らが逃れたいからそうするのか?

または、

完全には分からないとしても、なるべく分かる部分が増えれば、みんなのキツさが少しでも軽減されるのではないか?「みんな」というのには未来を生きる人たちも含まれます。


合理的実証的科学的手法について、私は敵対的なのではないか?と思われているかもしれません。でも事実は正反対です。

物質世界で既に起こったことを解析する方法としては、最も優れている方法だと考えています。

強調しますと、「既に起こったことを」です。

人類全体として、これからどうなるのか?は分からないのですが、為すべきことは、一体何が起こったのか?をできるだけ正確に記録していくことだと私は考えています。

何故それが大事なのか?

「物質世界で起こったこと」の中には人間が生まれて、ある程度の期間生命活動を続けて、死んで、朽ち果てていくということも含まれます。

ご存知の通り、人間は生命活動を行う中で、自然のプロセスに影響を与えます。遺伝子組み換えなども行えますが、人間がその生命活動期間中に行っているであろうこと。膨大な感覚、感情、思考などに関わる活動。これも無視はできないだろうと。消費されているエネルギーの量から考えても。

私がマガジン『道徳を読もう』でこだわっていきたい点は、どうすれば、いかに正確に、私たち一人一人の内面で起こったとされる現象まで含めて、私たちは記録することができるだろうか?ということです。

それは私たちの内面で起こっているとされる現象も、自然のプロセスの一部だと考えるからです。

この世の中で現実に起こったことをより正確に記録しようとすることは、人が等しく未来については正確には知りえないからこそ、人間の生命活動が続いている以上は継続されるべき義務だと思うのです。

何故?

考えてみてください。

誰も正確には分からないんですよ。これから何が起こるか?については。

何が起こるのか正確には誰も分からないのに、「私の方がよく分かっている」「いやいや。私の方が。。。」という争いを続けるというのは、正義といえるでしょうか?義があるといえるでしょうか?

私は言えないと思うのです。

とはいえ、未来があることが見えてしまうことは避けられません。誰にも。

とすればよりよい予測をしようとする思い、意欲を妨げることなどできないでしょう。

でも誰が一番正確か?は、倫理的に競うべきでもないし、論理的にも競うのは無意味だと思うのです。後者は根拠がないからです。

ならば何をすべきか?

根拠となるべきものをみんなで固め続けることなのだ、というのが私の主張するところです。

根拠となるべきもの。それがより正確な記録なのです。一体この世界で何が起こったのか?の。

合理的実証的科学的手法で、既に起きたことを探り、記録するだけでは不十分なのか?最も優れた方法なのに?

既に起きたことといったって、正確な記録をとるのは大変なのです。ほぼ無限です。多分人類が滅亡する方が先なんじゃないか?と思っています。

ということはです。「只今調査中」の看板出してみんなでお休み、なんてことは起こらないわけです。生き続けるのです。感じ考えながら。不均衡な世の中を。

世の中には昔々からいろんなストーリーがあります。今もみなさん作り続けられてますね。

起承転結のあるきちんとした正統派ストーリーでなくてもいい。ポエムでも。断片的なエッセイでもいい。雑談記録だっていい。

言葉がそこに形として残っていれば、道徳を読もうとすることはできます。

私たち人間が、どんな自然環境、社会環境の中で、様々な制約を受けつつ、来る未来に希望を抱いたり、不安を感じさせられたりしながら生きているのか。

一見苦労ばかり多い世の中で、どんなところにハッピーの瞬間って訪れやすいのだろう?さすがに皆無ってことはないだろう。無理やりにでも感じられる。それってかえってペインフルだけども、でもそれぐらいのクリエイティヴィティはあると認めてもいいんじゃないだろうか?ないと断じるのも一手ではあるけれども。。。それだと手詰まりになっちゃうよね。。。結局人間つったって宇宙のチリとかわりゃせん。。。でジ・エンド。。それもあまりにもつまらないし、多分現実を正確には表せていない。

お互いに優しくなれるようなストーリーがあれば、みなさんからもおすそ分けしていただけると嬉しいです。

当面こんな感じのプロセス解説を書くことになるとは思いますが。。。

ハッピーな瞬間を求めて道徳を読む、というのは何もテキスト解釈上だけのお話ではありません。

自然のエネルギーの流れ(エントロピー増大への)、それが残す情報、混沌から秩序が生まれ、やがて複雑系へと発展し、混沌へと回帰し、そこからまた秩序が、、、というプロセスと、私たちが言葉を運用して様々な感情に形を与え、思考し、それらに基づいて行動し、組織を作り、協働し、様々なものを作り出す、というプロセスとは相似をなしているのです。

情報と、情報が情報になる仕組み。

そのあたり、分かりやすく面白い話を書ければと思います。


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