脳みそ3分割
右脳と左脳に加えてもう一個両者に匹敵するようなかたまりができたら、人間って変わるかな??
「最後」を設定するとそこから先が見えにくくなるらしい?どうでしょう?
そもそも「『最後』を設定する」というのが私自身はどうも腑に落ちないので、「先が見えにくくなる」と言われてもさらにピンとこないのだけど。。。
脳みその構造がドラスティックに変わるなんてことはありうべきこととして思い浮かびにくいだろう。
でも生き物、なまものだからさ。
いまのカタチが最終形ってわけでもないだろう。
最近脳みそ好きな人多いみたいだし、例えばなんで右脳と左脳とに分かれたのか?調べてさ、なら三つ目、四つ目って分れる可能性は?とか研究しないかな?誰か。
やっぱ次分れるときは左右双方がパクッって割れて4分割かな??
脳みそじゃないのかもしれないなー。
現状の姿かたち・脳を含むパーツ構成の人体内部で何かは起こっているはずなんだよなー。言葉が使えたり、先読みしようとしたり、自他の違いが分かったり。。そういうことが可能になるための何かが。
教え教えられるという関係ではなく、自分で自分をリードする(受け身ではなく敢えて能動的に動く)ことによって、他者に勇気を与えられるような、そんな自他関係、知識創造のプロセスを構築するってのは無理難題か?
次々と新しいことが生まれるには3つでいい(4つは要らない)。
人間の場合、3つを生きながら、マネジメントは2つでやって、それで今がある。種としては生き延びてこれたともいえる。けど。生き残りは運・偶然。やっぱり自然界に属するものとしては3つを生きているということ。
マネジメントは2つと言ったけど、主に使っている道具(言葉)は3つで機能している。だからこそ想像力がはたらく。想像力がはたらかなければ、生き残り確率だって相当低かったかもしれない。いや。それは分からないか。しつこいけど。。生き残りは運・偶然。
道具(言葉)が3つで機能していることによってもたらされる恩恵というのは、余裕かな?結構制限かかっている認知能力のわりには。パターンが認識できるというのは相当な余裕をもたらすと思われる。起きていないことも想像できるから。パターンというのは実績が積み重なってのものなので、まだ起きていないことの想像(予想・予測)も、抽象概念の操作(主に因果関係の検討)も、なかなか正確。
やっぱり人間ってのは、その他の社会性のある動物とは比べものにならないぐらい社会あってのもの(他者との関わり合いが継続されてこそ)なのかもしれない。
「道具(言葉)が3つで機能している」と言ったけれど、その機能も、個人単独では使いこなせなくて、他者と絡み合うから、絡み合いの最中でのみ3つで機能する。
個々人のごく自然な感覚としては、言葉は道具で、自分たちはそれをよしなに使う人、という構成要素2つの関係。なので、直接実体のある人間と関わり合わない想像の世界では、「想像はオープン」と思われがちだけど、どんどんとクローズドになっていく。オープンアップする3つ目の要素ってのは、修業すればどうかわからないけれど、デフォルトモードだと”想像”するのはかなり難しい。却って言葉を介して様々思考などを練っていない、いわゆる半無意識の状態の方が、自然の3つのプロセスに沿っていられるともいえ、事実閃きとかはウンウン唸っている時よりもプラプラ歩いている時の方が遭遇しやすかったりする。
個人レベルの想像の内容・プロセスがいかなるものであろうとも、この世に存在していること、とある行為を為すこと(人目に我が身を晒すこと)は、二者択一。起きるか起きないか。起きたとしても、見られるか見られないか。で。生まれてきちまった以上、大概見られるか見られないか。注意を向けられるか向けられないか。の二択。どんなに注意深い人でも、全く気付かないうちに想定外の見られ方はする。
とはいえ、人間そんなに注意深くもないし、注意しようしようとし過ぎると神経衰弱でぶっ倒れちまうので、どんなに想定外の見られ方をされようが、気にしないことの方が圧倒的に多い。(逐一凹んだりいかったりするわけではない。)
そしてそして。気にする場合。これでもってようやくコミュニケーションが成立する前提条件が整うのだけれど、(実践ではかなり困難ではあれ)理論的・分析的には、「ワタシあなたのその見方。とっても気になるんですが。。。」とアプローチするなら、お互い様の事態に自分たちは巻き込まれたんだと理解して臨めるはず。何故なら、そもそもの発端が、「自分の見られ方が気になったこと」なのだから、当然立場を入れ替えれば、自分の見方(アプローチの仕方)だって、その他者にとっては、想定外で、こちら側の真意が十分に伝わるかどうかは何ら保証されていないということぐらいは理解できるはずだから。あくまでも理屈では。
ところが、特に現代のアカウンタビリティの考え方に沿うならば、客観的事実に基づき、有効であることが証明可能な証拠を挙げ、論理破たんもなく我が方の考えを述べることができたなら、我が方の責任は果たされた、と考えられる。つまり、そもそもが二者択一のもの(行為する/しない或はそこにある/ないこと)が、さらに証拠や真実性のある/なし、有効/無効、正/誤、などの二項対立で評価される。それにより、行為や、人や物がそこにあることの経時性や偶然性が過小評価される傾向が増す。特に物事の個別性、唯一無二性の過小評価。
なんでそのイベントが私たちの観察するような現れ方をするに至ったのか?普遍的な法則もあるかもしれないけれど、個別具体的な事情の方に意味がある場合もある。「普遍」の方に重点を置きすぎると、「なぁんや。アンタもオレも同じやん。」の”同じ”が、より交換可能・代替可能の”同じ”の意味が強くなる。
”アンタ”も”オレ”も別にそれでいいってんなら問題も少ないけれど、片方により利益がある場合が結構ある。さらに、利益が少ない方が気付いていなければ、当面穏便には済むだろうけれど、それって倫理的には「どうよ?」って感じ。またさらに、利益の少なかったことに気付いてしまったら?ちょっとクレームして関係が修正されるならマシだけれど、圧倒的なパワー差があったりして気付いたところでどうにもならない(搾取され続けるだけ)って場合もわりとある。
個別の事情やら唯一無二性というのも大事なのです。
個別があまりにざっくり「同じ」にまとめ込まれてしまうと、折角お互いの「気になる」「気にされる」によってコミュニケーションの機会が生まれても、実質コミュニケーションが行われないことになる。どうしてかというと、「気になってしまった人」が気になったがために進める解釈というのは、先攻後攻に関わらず、所詮それぞれの人の仮定・仮説でしかないから。お互いの真意に関係なく、お互いを勝手に解釈できてしまう以上、コミュニケーションなるもの、通じていると信じるかどうかだって各々の解釈(思い込み)でしかない。ただ単にお互い勝手に解釈しただけでは、平和裏にコミュニケーションを済ませることができたとしても、参加者同士は全く繋がっているとはいえない。異なる個人同士を繋げるものというのは各々が発する言葉やそれ以外の媒体(ジェスチャーや表情など)には違いないけれど、お互い様と言う時に、「結局みんな同じ」だけでなく「それぞれの個別事情。全部は無理でもなんとか拾えるようにしなきゃな。」ということが意識できるかどうか?というのはかなり重要なことなのだ。
「お互い様」は、自他の境界を薄める或はなくす、とか、他者に起きているであろうことを我がこととして感じる(共感)というように理解されやすい。まあ定義の方はあんまり重要でもなくて、「お互い様」の感覚がより明確に感じられれば、コミュニケーション相手に対しての厳しさ加減が多少なりとも緩むだろうと。些細なようでこういうのが倫理的な行動ってどうやって導かれやすいか?を考える時には結構大事。
それでも、自分と他者との関係(構成要素2つの関係)に集中してしまうのは好ましくない。
「お互い様」と思っていたはずが、全くお互い様でない事態を招くので。
もうお馴染みですね。
「私はこんなに”お互い様”って感謝しているのに。。。○○は、、、。」
そうなんです。
新しい何かに道を開く3つ目の要素って、常に無我なんです。
アンバランスと言った方がいいかもしれない。行為する人、我が身を晒す方の人だけが無我扱いを受けるから。別に禅などを極めて無我の境地に入れなくたって、身を晒しちまったら勝手な解釈の対象になることは避けられない。
「お互い様」って深いんです。
お互い無我でもないのに無我扱いされる、させてあげる、させていただく感じ。
たまたま気の合うもの同士だと気持ちいいはずだ。
問題は、気の合うもの同士なんていつでもどこでもは無理ってところ。
身を晒すにしても、自己犠牲、利他の精神みたいなものだけには頼れない。晒す本人が感じられる便益がなければ。
便益どうこうに関係なく事実としてこの世に存在しているだけで既に晒しちゃってるんだし、多くの場合他人からどう見られるかなんて気にも留めてないんだから、ちょっと気になったからって気にすんな、とも言えるけれど、それだけじゃねー。たまにだけってったって、気になるもんは気になるし、気になって意識的に様々脳みそ使って思い悩む機会こそが「生きてる」実感が湧く時かもしれないし。「下手な考え休むに似たり」とかいって封殺すべきでもない。余計に欲求不満が溜まってしまう。
脳みそが起動しちゃった時の対処。
俺の行動・言動は、俺自身の固有の欲求を満たすためにあるのではなく、俺以外の人間の思考の種(タネ)だ、とどうすれば割り切れるか?俺自身もハッピーで、あれこれ解釈する奴らもハッピーであることを願うようになるにはどうすればいいか?
生の意味について考えつつ、考えない人をイノセントと羨んだり、馬鹿者と蔑んだり、害悪やゴミと見て攻撃したりしない。そんな態度。
幸せって実はささやかなもんだったりする。
どんな風に?ささやかな幸せって具体的に何?
全くの真っ暗闇ってわけではないってことかな?
生まれただけで日々いや時々刻々と脱皮し続けられること?
しんどそー。
けど、休んじゃったら即死ぬようなもんでもなし。
繰り返し脱線・復帰も可能な感じだし、常時リ・ボーン!ってのを楽しむってのはダメかな?
実際言葉を使えるってのはこの常時リ・ボーン!を感じやすくしてくれる。その瞬間は無理でも、あとで辿ったりできるから。文字で残してなくてもメモリーで。
メモリーなんて都合いいように憶えられているだけで信用できないとか思うかもしれないけれど、悪い思い出が一切忘れ去られるわけでもなし。そもそもリ・ボーン!ですから。目的は。別に事実を克明に思い出さなきゃなんないってこともない。事実関係は実際放っておいてもシビアに管理運営されるもの。元気で能力のある人はいくらでもいる。パワーが支配する世界。だからこそ弱者には弱者なりの生きがいってやつが必要で、それが常時リ・ボーン!なのだ。
パワーあっても弱者のことも本気で思いやれる人だっている?
うーん。そーかなー。
そんな神さま仏さまのような人間なんて人間じゃないでしょ。もはや。神の顔仏の顔も見せることはあるかもしれないけれど、それはほぼ予測不可能で、持続時間だって大したことはない。それが人間。
脳みそ3つに割れたら変わるか?
というのはそういう問いかけ。
言葉使うのって別に人間が選んだわけでもないよね?
でも使う。(選んでるんなら止められるでしょ?)
そして使い方は基本2。3はマレ。
強い方の人は3なんてものが現れるのを待つ必要がない。3はオープンアップだけど、余裕で生きていけてるんならそんなもの必要ないでしょ?
必要がないと決めるから強くなれるのかもしれないけど、どっちにしたって、強い人は2で話すし、世の中の諸問題もそれで片づけようとする。
2で物事を見たり処理したりするような強者に倫理や道徳なんてないのよ。結局片方は切り捨てられるわけだから。
じゃ誰が倫理や道徳なんて持ち出すのか?
勿論強者。持ち出せるのが強者。
でも彼ら自身が切に倫理や道徳を求めているのではない。
全て安定支配を維持継続するためだ。
そんなもんですよ。人間のできることなんて。
違うといって燃え滾るならそれは大歓迎。どんどんチャレンジしてもらいたい。脳みそが3つに割れるぐらい。
私は強者を敵視しているわけではない。その力を信頼している。現在私たちが享受しているような世界をもたらしているのだからね。
でも弱者が寿命の違いこそあれ、渋い人生を生きているのも厳然たる事実。
下剋上は無理としても、生きているなりの楽しみがあったっていいに決まっている。
そもそもの理解として、強者弱者の境界なんてハッキリとは引けないというのがある。
強者に見える人が弱者に見える人々の生活の方に豊かさを見出したり。
一体何が人間らしい幸せなのか?なんて誰も明確には分かっていない。
常時リ・ボーン!はそれを表さんとするもの。強者弱者に関わらない人間としてのささやかな幸せ。
常時リ・ボーン!と命名することによって、それを目指すのか?目指さないのか?分析検討が可能になる。
万能の神に挑戦したい向きには是非これぐらい根源的な分析から入っていただきたいものだ。
でも、脳みそ3つに割れるなんていつになるやら、そもそもそんなこと起きるのかどうかも分からないことは目指してません。ただ、それぐらい起こり得そうにない物事を設定した上で、現実を分析するという方法は試してみたい。
常識かなんかの設定する、”カベ”と信じられているものを超える気があるか?ということ。
超えたいなら、そこそこ現実的とかいってカベを設定して、その範囲内で快適に現実の分析を楽しんでいてはいけない。
(相当根拠レスな)”常識のカベ”を超えるために、荒唐無稽な目標を設定しろと言っているのでもない。
カベ超えるだのイノベーションだの言う前に、現実ですよ。現実。まずは。
現実を深く理解したいという意欲がなければ倫理だの道徳だの安易に言うべきじゃないし、言うならありふれたようにしか見えない現実をどこまでもどこまでも掘り下げる覚悟ぐらいは最低限必要だろう。
倫理や道徳を語るなら、万が一人生なんて何の意味もなかったとしても、現時点では分かってない以上は意味あるものとして探りを入れ続ける。それぐらいの気合いは入れたいものだ。
現に生き続けている人間がいるんだ。人間のために意味を探す。そんなの相手にもしないで倫理を語る(騙る)なんてのは相当不道徳な行いだと思うな。