ファシズム
おそらく歴史的な経緯のせいでしょう。知識人は嫌いですね。この言葉。
まさか自分がファシストだなんて思わないですね。
残念ながら、私たち人間は全員漏れなくファシストの素養を持っています。
これは仕方がない。努力でどうこうなることではありません。
私たちの認識能力は、一発で個々の絶対値を計測するのではなく、比較、コントラスト、差異によって物事を識別していくからです。
感知した差異、濃淡とか強弱とかが、どれぐらいの範囲で適用可能か?、或は、どういった状況なら有意な差異であるのか?はどうしても気になるのです。
「気になる」という言い方が嫌いなら、相対的な違いだけで、物事がどれだけ明瞭に識別できるか?を想像してみるとよいでしょう。
AとBは明らかに異なるモノだと伝えたいのに、似たようなモノとしか理解してもらえなければ、誰がどう見ても異なるのだと理解するような性質、特徴など、つまりは、決定的な違いを探して、提示しようとするでしょう。
AとBというような個別の案件に出くわしたら、そのように厳密に対応するかもしれませんが、私たちの日常は比較的なあなあで流れていきます。だいたい似たような理解の仕方をする。似ているもの、異なるもの、について。
つまりは、個々の厳密な違い(絶対的な値)よりは、「みんなの理解」という結構曖昧な”カテゴライズ可能性”の方を重視するのです。常識とか、慣習、風習とか言われるようなものです。明瞭な定義よりも、なんとなくでも囲ってしまえるかどうか?について理解を共有できること、つまりは、いつでもなるべく簡単に分けられるようにしておくことが重要。
群れるなとか、権威にすがるな、とか言われても無理な相談なのです。
だって、正確に絶対値を計測して調べることなく、だいたいの感覚で、同じもの、異なるものなどの区別を、かなりな数の異なる個人の間で合意しようとするんですよ。「そーやんなー!?なぁ?」「ま。まぁね。」って、元々似たような感覚を持った似た者同士(群れ)ってだけではなくて、力関係も影響するじゃないですか?賢い/そうでない、とか、信用できる/あまりできない、とかいう人間関係も含め。
では、私がマガジン『動的平衡の社会学』で繰り返し推奨しているアナーキズム。「群れない」は何なのでしょうか?
どうしても消せないファシスト的な素養に対するけん制でしかありません。
ただ「私たちは一人一人ファシスト的な素養を持っていて、それは決して消し去れはしないものなんですよ」と言い続けるためのものです。
「自分はファシストなんかじゃない」と言いたくなる人が結構多いように、ファシズムというのは危険です。歴史が証明しています。
その素養を誰もが持たされていて、決して完全消去はできないわけなので、注意して付き合っていくしかないでしょう。
間違っても、「ああ。自然の決めたことなんじゃあ刃向かってもムダよね」とか言ってヤケクソになってはいけません。
それでは世の中にあるありとあらゆるルールが無意味になってしまいますね。
生まれて死ぬのも自然の決めたこととすっかり自然にお任せできるというなら話は簡単でしょう。ただそうはいかない。ウソはつけませんね。
「自然にお任せ」は全くのウソってのが私たち人間について自然のお決めになったこと。
運命論に従うなら、「自然にすっかりはお任せできない」ってのに従うしかありませんね。ついでに「それでもお任せしたくなっちゃう」ってのも含めておきますか。ファシスト的素養です。
アナーキズムや自己3面説を推すのは、あまりにクソ真面目になり過ぎないってのもあります。
いいじゃないですか。たまにファシスト的素養が強めに出ちゃったって。
それが人間なんです。
無理はいけない。
特に世の中を必要以上に拗らせてしまうような無理は。
率直さって大事ですよ。
一説には、複雑な事象を説明するには複雑な理論が必要、とも言われます。
でも、「注意すれば私たちはファシストにはならない」とかってウソじゃないですか。
そんな真っ赤なウソを土台にして理論構築していったら、絶対無理がきますよね。論理的には整合的でも、現実とかけ離れ過ぎてて全く役に立たないばかりか、害悪さえ及ぼす。一番の害悪は何と言っても、そういう役立たずイリュージョンに住み続けて生き続ける人間がエラソーに「間違っていない」と勘違いし続けること。そのパワーに現実が歪められまくる。
普通に生きているだけでより簡便で普遍的な法則の方を望むんですから、ちょっと恵まれていたりすれば、その望みは幾倍にも膨れ上がります。
「ちょっと頑張って注意すればもっと普遍的なルールに、”みんなが”従えるはずだ」とか。
放っておけば、敢えて複雑な方を尊重しようなんてしない、できないんですよ。
そういう前提で”率直に”分析に向かわなきゃ、防げる災難だって防げやしない。
あれ?なんでこんなひどいことになっちまったんだ?ってね。そんなの繰り返すばかり。「それが人間だ」と言ってしまえば。。。それまでですが。。。
弱点を口に出すと、あたかもそれに甘えて言い訳にする。やる前から失敗の予告をするような感じもしないではない。
でも、頑張ったって克服できない性質ってあるのです。
そう率直に認識した方が善後策を適切に練ることができるでしょう。
とはいえ、非常に悩ましい問題ではあります。
「真面目に努力」して少しでも限界までの領域を広げようとすることは悪いことじゃありませんから。程度にさえ気を付ければ。
じゃあ。
それに向かって努力し続けても一向に問題にならない目標みたいなもんを設定すればいいんじゃないのか?と思ったわけです。
ファシスト万歳!です。
ではその共通目標をば。
「全宇宙の完全コピー作成」
普遍法則を求めるのも次に何が起こるのか?を知りたくなってしまうから。次に何かがあると勘づいてしまうから。
どうしても知りたいなら、全宇宙の完璧なコピーを作れるようになればいい。普遍的なルール(例:方程式一つで全部説明とか)ってのは簡便性の観点からは理想だけれども、全宇宙のありとあらゆるものの振舞いが予め分からないなら、結局中途半端なところで、やれ何が足りない、何が間違っているとか文句言い合って終わるのがオチ。
量子一粒漏らさず振舞いをコピーできるような方法を見つける。
私たち人間の心の動きも一つ漏らさず。そのためには、私たち人間を構成する物質の何から何までを正確に把握すること。完全コピーできるほどに。
既に一部科学で不十分ながら取り組まれていることです。全宇宙完全コピーのようなヴィジョンはないでしょうが。
この目標(ヴィジョン)は何も一般的に科学と呼ばれている営みの専売特許ではありません。
音楽、絵画、彫刻、ヴァーチャルリアリティ、文学、詩、etc.いわゆる芸術一般が目指しているところも、全宇宙完全コピーの試みと見ることができます。科学との違いとしては、過去や未来のことではなくて、次々と過ぎゆく現在、と考えると理解しやすいかもしれません。「その唯一無二の一瞬をカタチにしたい。」
想像力を駆使する私たち人間ですが、材料になるものはこの世に存在する何かであることはほぼ間違いありません。
知識というものは、私たち人間がこの世の中に存在する仕方、という理解を提唱しているとおり、私たち人間とそれ以外のもの(宇宙)の関係(全宇宙)を知る手掛かりになりそうなものの全てが知識であるとも言えます。
科学的な手法では、「何がデータとなりうるか?」を選別することが通常の分析手続きとして行われますが、全宇宙完全コピープロジェクトにおいては、データになり得ないものはありません。人間が想像するという行為も含め、この世に存在するものは全てデータです。
どんなに頑張って注意したって全体性への渇望は完全にはなくならないわけですから、何ものも切り捨てない気持ちで、全てを包括するホンモノの全体性を目指せばいい。どうしても「真面目に努力」が正しいとしか信じられないなら、その信条に従って、完璧を目指すべきでしょう。
間違っても、努力できないのは誰か、何かのせいとか言っちゃあいけませんね。そんなことを言うなら「真面目に努力」なんて止めちまえばいいんですよ。
大丈夫。心配は要りません。
誰一人として真面目に努力なんてやってもいないし、やり切った者など一人もいやしないのですから。
アナーキズムも自己3面説も、肥大しがちな「自分が正しくいられる領域」について、その肥大っぷりを自ら小ばかにして笑い飛ばせるぐらいの余裕を私たちに与えてくれるものです。
アポロジェティックでもなく、率直に自らの弱点を理解する。そりゃ多少(ひどく?)アイロニックには聞こえるでしょうが、半端もんが全体性を目指すような格好悪い存在だからさ。私たち。仕方ないでしょう。
「(普遍法則を念頭に)前向きに進歩を目指す」ことを完全には捨て切れないなら、「全宇宙完全コピー」ぐらい言わなきゃダメなんじゃないか?って私は考えるわけです。冗談とも真剣ともとれる領域を残しておくために。