犠牲というのは犠牲ではない
W杯始まりましたね。
という時候なんでしょう、中村俊輔選手の2006年回顧の記事に出会いました。
朝日新聞だったかな?続編があるような終わり方だったので、私が読んだのは前編?多分。
魂の少なくとも一部は共にフィールドで戦っている以上、思いや命運をフィールドで戦うチームメートに全て託しているのとは違うと私は思う。本当に戦ってるんだろうと。
そういえば、カズ選手の「誇りと魂は、、、」という名言もありましたね。
ここのところ私が考えていることは、どうすれば表裏というか、目に見えている面には必ず見えてない面がくっついて、”同時に”起こり、動いているんだ、ということが分かりやすい話でもって、広められるだろうか?ということ。
現代に始まったことではないんだけれども、現代になってますます拍車がかかったことは事実だろう。
語りがそうした見えるものと見えないものとの不可分さを「些細な事」とあまり注意を向けなくなったのは。
アポロジェティックというのはあまりいいものとは思わないけれども、竹を割ったようなスカッとしたプレゼンだって、やってる本人には、そこはかとなくもののあはれを宿していてもらえたらと思う。
献身を受けている方が、献身していることになっている人たちの思いを汲むとはどういうことか?
犠牲になっているように見える人たちも実際に戦っているわけだから、別に成り代わって戦う必要はなかろう。
自身のベストを尽くす。
だけだとなんかありきたりだね。。。
ベストを尽くすつもりでも尽くし切れているとは多分言い切れないんだろう。
そう思うと。。。
多分全力以上を目指さざるを得ないだろう。
そんな理不尽さをどう受け止めるか?
なぁんや。必死にやったって、完全ではないんだから、適当でいいや!?
そんなことになるんだったら、シンプルかつストレートに「ベストを尽くす」でええやん!?
誰かの何かを代表することの難しさってものには思いを馳せた方がいいだろうな。
感謝ってのもね。。。
今となっちゃあなんか安易なかんじになっちまってる。
何に感謝してんのよ?ってね。。。
感謝している主体が強いというかね。。。
感謝も一つのパフォーマンスと化している。
ひねくれてる??
まあそりゃそうだろう。
ひねくれついでに言わせてもらうとさ、私は感謝するならやっぱり神さまのようなものに対してだな。
実在の人間に対してはさ。。。
私なんぞが感謝したところで、その人にとって何の救いにもならんだろうと。
勿論ありがとうとはいいますよ。こんな私だって。
じゃあそれって嘘なんかい??と問われれば、嘘ではない。
だってちゃんと神さまのようなものからの幸福がその人にも降り注ぎますようにって祈ってるもの。
やっぱり言葉って私たち人間にとってはただの道具ではないんだよ。
それ自体が神さまのようなものからの授かりものというか、授けてくださったそうした存在にも必ずメッセージを送っているという感じ。
犠牲になっている者の魂も、犠牲をただのパフォーマンスとしか読まないんでは救われないだろう。
こんなややこしい話が、ごく当たり前に感じられればいいのになー。
難しいよね。
世の中の役に立たなきゃムダなわけだからさ。。。
(結局皮肉で終わってしまった。。。これではいかん。。。祈りが足りんな。。。ブツブツ、、、。)