全て否定しようと試みてみても
土台無理なわけだし。
何かと否定から入るというのはウザがられもしがちだけど、チャレンジするぐらいいいんじゃないか?なんて考える。
その試みに何の意味が?
否定をただ試みるだけでも、否定されるものの意味が際立つ。つまりは、一般に是とされているものなどのあらためての評価につながるとか。再認識。価値あるものへの意識が高まる。などなど。
ちょっと「否定してみちゃいたいな」とかムラっとしても、諸事情に配慮してすぐ引っ込めちゃったりってのはなぁんかおもしろくない。
そんなに小さくまとまってどーする?
どーもしないか。。。
ふと考えると、何も抵抗感なく受け入れられていることって、ほぼ無意識で、意識に上った場合は、ある意味ちょこっとではあっても抵抗のようなもの、摩擦っぽいものが生じているんではないだろうか?
私は基本姿勢が批判的なのか?と疑うこともあるけれど、どうもその見方ではスッキリしない。
言葉にすれば既存の物事や価値観、現状などに対して「否定的」「批評的」でしかなくとも、自分の感覚的にはもっと直観的で反射的。要するに意志の力では止まらない感じ。
「肯定的な見方から入る」ということも大事で、特にひらかれた知識層を自認するような人に好まれるよう。悪かないんだけどね。無理あるよね。常に意識に上がるものを肯定のみで処理するのって。
眼ぇ血走らせて「肯定!」って言われてもねー。説得力はない。「あ、あのー。なんか必死で否定しようとしてらっしゃいません??」みたいな。。
価値中立にまつわる問題点については以前話したけど、肯定vs.否定も似たようなところがあって、どっちか?は決めるとしても、必ずしも選ばれない方の存在は否定しなくていいと思うのよね。「ケリは着いた。一切復活の余地ナシ!」みたいなね。言いたくなる気持ちも分からないではないけれど。
もっと曖昧な感じで、数年後には逆になってる可能性も否定できない。。。とかね。
何でもかんでも否定しまくってみると、大事なのはレーベルじゃなく、現に存在している何かに対する思いの強さ。思いがあるからいい名前を付けて呼びたい、だけでなく、みんなにも呼んでもらいたい。その辺の内実が見えてくる。
矛盾するようだけれど、否定しようとすることが、存在をよりヴィヴィッドに感じさせてくれたり。
とある方向からだけでは記述しきれない面があることとかも。
結果、個人的な思い入れも、独りよがりには終わりにくくなる。別の立場からの「思い入れ」だって存在することが分かってしまうから。
否定から入るのだって、悪かないでしょ?やりようによるんだろうけれども。。。