memo: 能登路 雅子 (1990) 『ディズニーランドという聖地』
・ディズニーランド開園の日
「今日ここにお集まりの方々は・・・エッフェル塔の落成式に出席した人々と同様、いつの日か誇りに思うでしょう」
ディズニーランドの開園をコメントするのに、なぜ突然エッフェル塔の名が出されたのか・・・エッフェル塔は・・・イギリスに工業的優位を、また普仏戦争によってドイツに軍事的優位を奪われたフランスは、この高さ300mの鉄塔の建設によって、金属工学における世界一の技術力を内外に証明しようとした。p.21-22
・当時、ケネディ(民主党の新人大統領候補)は新興アフリカ諸国の共産化を食い止めることに特別の関心を抱いており、1959年秋に訪米したギニア大統領セクー・トゥーレとの会見を強く望んでいた。・・・ケネディはヘリコプターを雇ってディズニーランドに飛び、ここでトゥーレ大統領と会見を行ったのである。p.26
・1955年夏の開園式において、ディズニーは次のような短い式辞を述べている。
「ディズニーランドはあなたの国です。ここは大人が過去の楽しい日々を再び取り戻し、若者が未来の朝鮮に未来をはせるところ。ディズニーランドはアメリカという国を生んだ理想と夢と、そして厳しい現実をその原点とし、同時にまたそれらのためにささげられる」p.31
・「メインストリートは単なる物理的空間ではない。それはある心の状態、価値観を伴う場所である」。アメリカの建築史家スピロ・コストフは、この国の人々にとってのメインストリートの意味をこのように述べている・・・中西部のメインストリートを、「素朴で温かみのある理想的共同体」として神話化した大勢の人々がいた。p.88-89
・1964年春に開幕したこの博覧会(ニューヨーク世界博)は、ニューヨーク市の成立300年を記念する一大祝賀行事でもあった。開会式のちょうど5か月前にケネディ大統領暗殺という衝撃的な事件を経験した当時のアメリカ国民は、公民権をめぐる人権構想、ヴェトナム介入の深刻化のただなかにありながらも、まだ未来への楽天主義を捨ててはいなかった。「理解を通じた平和」というテーマを掲げ、・・・・活力と希望に満ちたアメリカの将来を人々に約束していた。p.126-127
・「ジャングルクルーズ」は現実の世界には存在しない、しかも世界各地の密林のイメージを巧みに合成した「理想の」ジャングルとして完成した。客の乗り込んだ探検ボートはアマゾン奥地の熱帯雨林を経由して、いきなりビルマのイラワジ河流域に進み、カンボジアの神殿の廃墟の前を通過したかと思うと、いつしかナイル川上流に入っており、シマウマの群れを襲うライオン、探検隊のキャンプを荒らすゴリラなどを忙しく見物するうちに、「シュヴァイツァーの滝」に接近するという具合に、地理的現実の壁をどんどん超えて進んでいく。p.182
・リヴィングストンがアフリカ奥地で消息不明になったとき、捜索に向かったスタンリーがタンガニーカ湖畔でリヴィングストンを発見した話 p.184
・アドベンチャーランドが「あらゆる世代が共有する普遍的な探検の夢」を反映した場所であると述べているが、ディズニーランドの「冒険の国」は、リヴィングストンやスタンリーの行動を背後から支えていた文明観、すなわち19世紀後半という特殊な歴史的時間と西欧白人社会という特殊な世界が育んだイデオロギーを反映したきわめて特殊な場所なのである。p.186
・50年代のアメリカと80年代の日本とでは重大な相違点がいくらでもあるが、論点をはっきりするためには・・・次のことが言えるだろう。すなわち、経済的繁栄の中で若者の好みが市場の動向を動かし、豊かさというものを快適さで実感したい中産階級が台頭し、国民は国粋主義的傾向を強めながらも価値観の多様化を支持する p.231