人格、桂子
どこまでも攻撃し続けられると、逃げ場を失う。
十歳の時に突然「桂子」という名前が目の前に浮かんだ。桂子って何だろう。
相当に虐待を受けていたらしい。近所の人が言うには「ずいぶん心配な子だ」とのことだと、それは聞かされていたが、どういう意味かさえ分からなかった。
いま、桂子は眠っている。
逃げ場を失うと人格の分離が行われ、虐待されている自分を客観的に見つめるもう一人の自分が生まれてしまうという。
まさに自分がそうだった。
友達の家に遊びに行くと、ホッとした。どうしてこんなに安心するんだろうと。そうして家に帰るときに、強烈に苦しい感情が襲ってきた。
確かに桂子が生まれて当然だった。
桂子と話をするようになって、自分と桂子と、どっちがより苦しい思いをしたのか、いま確認している。桂子もかわいそうだと思う。
自分がかわいそうだというと、自分中心、自分本位、自分勝手。そういわれてしまう。宗教の教師にさえもだ。いかに無理解というものが根深いか。
桂子がかわいそうというなら、許されるのではないのだろうか。せめてもの。