GoToトラベルでタイに行ってみたい 《前編》
「タイに行ってみたいな」とひどくつまらないダジャレを口にしたので、普段は僕みたいに冗談なんてほとんど言わないのにどうしたんだと心配したりもしたが、事あるごとに告げてくるので、最初から百々子は本気だったのだろう。
目的地に関して異論はなく特段断る理由もなかったけれど、幾度となく聞かされるその誘いに、なぜか僕はいつもはぐらかすような態度を取っていた。
海外旅行はふたりとも慣れている。
出会ってすぐに聞かされていたことだが、百々子は昔からひとりでよく海外に遊びに行っていた。今でもよく、僕が知らないうちにどこかの国にいたりする。
僕の方も、学生時分にはバックパッカーとして数ヶ月間、東南〜南アジアを中心に各国をほっつき周っていたし、就職して社会人になった今でもまとまった時間をつくり、年に数回は海を渡っている。日本では決して味わうことのない体験を触れにいっているのだ。
そういえば、百々子がはじめて僕に興味を示したのは、僕がニューヨークへ旅に行ったときの話だった。路上生活者らしき現地男性から4ドルのぼったくりに遭遇した体験談を聞きながら、彼女はひたすら白い歯を見せて笑っていた。
そうだね、じゃあ行くか、と応える。
-------- ---✂︎--- --------
飛行機に搭乗し、シートに座りシートベルトを締めると、彼女はどこから出してきたのか携帯用枕を首に装着すると、「じゃあ」と早々に寝てしまった。
人を乗せて空を飛ぶ乗り物なんていつ墜落してもおかしくない、と信じてやまない僕は、この段階ですぐに眠りにつける呑気な彼女のことをとても羨ましくおもう。
機体が離陸し緊張からとりあえずの落ち着きを取り戻した僕は、文庫本を取り出し(電子書籍の方がかさばらなくて長旅には最適なのだが、僕はどうも電子文字は読むのが苦手だ)読書を少ししたあとは、隣の彼女の寝顔をずっと眺めながら、東シナ海上空を過ごした。
-------- -------- --------
どこの国のイミグレーションカウンターでも、たいてい僕は入国審査につまずいてしまう。
理由は、じぶんでも自覚しているのだが、出入国カードを適当に書いてしまうからだ。記入の際、旅券番号や搭乗便名をいちいち確認するために手持ちかばんをひっくり返し、パスポートや旅行予定表を取り出すのが億劫なのである。
今回は、滞在先の欄に即興で考えた「The Tai Hotel」という安直で綴りもデタラメな架空のホテル名を乱雑な文字で記した。"ワンチャン"実在しそうな名称を狙ったのだが、そのうすい期待を乗せた出入国カードは、案の定、入国審査官の険しい表情が上乗せされて突き返された。
もしかしたら「The Kingdom of Thailand Hotel」と仰々しい名称にすれば、"ワンチャン"その審査官を出し抜けていただろうか?
しかしやはり、人生において「ワンチャン」なるものにこれからの運命を委ねてはならないし、だいたいのそれは叶うことはない。素直に受信BOXのなかの予約完了メールを開いて滞在先を正確に書き写すべきだった。
毎度毎度同じ過ちを繰り返し、我ながら懲りない。そう反省しながらも、いつもまた同じ過ちをおかしてしまう。
隣のレーンに並んだ彼女は、早々にゲートを通過していて姿が見えない。僕のことを気にも留めず、彼女は一足先にバンコクの地を踏んでいた。
どうでもいい話だが、タイ語でワンチャン(วันจันทร์)とは「月曜日」の意味らしい。ちなみにこの日は土曜日だった。
-------- -------- --------
ドンムアン国際空港からバンコク市街へはバスに乗った。適当なバス停で降り、バックパッカーの聖地「カオサン通り」に向かう。初日の宿泊先(もちろん The Tai Hotel ではない)がその近くにあるのだ。
-------- -------- --------
異国の地でマクドナルドを見つけると、必ず僕はそこに立ち寄ってしまう。
理由は、じぶんでもわからないのだが、習慣というか条件反射というか、いわば海外旅行の様式美として僕のなかでルーティンワーク化している。
今回も、カオサン通りを歩いている途中にマクドが目にとまったので、少し寄っていかないか? と彼女に提案した。しかし、
「なんでこんな処に来て、そしてよりによって今マックなの?」と彼女は即決で却下し、足早に僕とドナルドの前を通り過ぎていった。それもそうだのだが―――。
彼女は僕と違って、判断が早い。
-------- -------- --------
ひと先ず荷物を預けるために宿泊先のドミトリーに着いた。
エントランスや各部屋はオートロックがかかり、セキュリティはバッチリ。2段ベッドが4セットほどある部屋が男女別に分かれていくつかあり、室内の各ベッドスペースはカーテンで遮られていて、宿泊客の最低限のプライバシーが確保されている。なんといっても清潔で虫もいない。
フロント付近のセントラルホールでは欧米人たちが、(彼ら特有の)陽気で賑やかな会話を楽しんでいて、オレンジ色を基調とした内装と熱帯気候も手伝ってか全体的にただよう雰囲気はいい塩梅で気怠く明るい。
シャワーの水圧の弱さに目をつむれば、格安の宿泊代から考えると僕の採点基準は星 4 である(このときはまだ、欧米人たちの賑やかなそのおしゃべりが僕の夜の眠りの邪魔をすることを知らず、最終的に星を 3.5 に落とすかどうか迷うことになる)。
-------- -------- --------
渡航前のスタバでの作戦会議中、熱心にスマホを覗き込み、レビューと掲載写真を交互ににらめっこしていた彼女は突然「ここがいい!」と声を張り上げ、一泊3,000円ほどの宿泊料金と予約確定ボタンが映った画面を(ダークモカフラペチーノを飲みながら)僕の方に向けてきた。
君が良ければそこでいいんじゃない、という僕の返答を待たず、彼女は予約確定ボタンをポチっていた。
旅先ではトラブルや不便は付きものである。日本とは文化が異なる海外の土地でならなおさらだ。とりわけそれが貧乏旅行にもなるとある種の特殊能力が必要で、その点ふたりともその能力者だろう。
とくに神経質な人は、ゲストハウスやドミトリーといった簡易ホテルでの寝泊まり、バスのような狭いスペースでの長時間移動、といった窮屈で不自由なことを毛嫌うものだ。
しかし、彼女からはそのような感情や振る舞いを、日常の暮らしのなかでも遠出の最中でもいっさい感じ取れなかった。むしろ自ら進んでその「不自由さ」を求める好奇心や探究心がある。僕は彼女のそういった姿を近くで見れて嬉しいし、一緒になって楽しんでいる。
誰かと共に旅をするということは、同じ出来事に同じ態度で臨める者同士でないとうまくいかない。
-------- -------- --------
僕は背負っていたヨレヨレのアウトドア用リュック、彼女はガラガラと引いてきたスーツケースからようやく開放され、しばしベットで休憩したあと、僕はパスポートとスマホと財布(中身はすこしの現金とキャッシュカード)、彼女はそれに加えてエチケットアイテムを数点といった、各自の必要最低限のアイテムを、僕は肩から斜め掛けしたウエストポーチ、彼女は首から前にぶら提げたサコッシュのなかに入れ、再びカオサン周辺をぶらぶらすることにした。
カオサン通りの一本北側には「裏カオサン」と呼ばれるランブトリー通りがある。オシャレな店も多く落ち着いた雰囲気もあり、"表"の混沌さとはまたちがった味わいでオススメだ。
なぜかそこで彼女は、路上で売られていた明らかに偽物だとわかる「ドルチェ&ガッバーナ」のサングラスを購入し、それを僕に掛けさせた。
ところで、僕は生まれてこの方、サングラスを掛けたじぶんが"イケてる"などと覚えた試しがない。
歳を重ねて人生経験が増えてくると、この「生まれてこの方〜〜ない」という呼応の使用回数は減っていくものだと、僕はおもっていた。
しかしそれはまちがっていた。じぶんがこれまで気づいてこなかった未知の"この方"が見つかることの方が断然多く、またそれは解消されることなく居残り、むしろ使用場面は増える一方なのだ。そして今また一つ更新された。
サングラス姿の僕に、彼女はいたずらっぽく白い歯を向けた。
-------- -------- --------
日が暮れていた。僕たちはチャオプラヤー川のクルーズにでかけた。
クルーズ途中、川沿いに建っているライトに照らされたきらびやかな突起物に向かって、彼女は「ワットプー! ワットプー!」と指差してはしゃいだ。―――それはワット・プーやない。ワット・"アルン"や。と心のなかで目の前の無邪気な節子に諭す。
アルンの対岸にはもう一つ「ワット・"ポー"」もあるのだが、それを「プー」とまちがえたのだろうか? 彼女にとって お寺 は、アルンもポーもなんでも「プー」で構わないのだろうか?
こういう状況では、男は正確な情報を差出がましく説明しはじめたりするものだが、それが女性に向けての場合は必ずしも正しい振る舞いとはいえない。却ってその場の雰囲気を壊してしまうことが往往にしてある、ということを僕は過去からの経験でよく知っている。同じ過ちはおかさないぞ。
特に訂正することもなくやり過ごした。
余談だがワット・プーはタイではなく隣の国、ラオスにある。
-------- -------- --------
クルーズ船を降りたすぐのところにあった雑貨売り場で、彼女は象の置物を物色していた。
彼女のマンションの部屋にはこれまでいろいろなところで集めたであろう象のアイテムが、テレビボードやら洗面所の鏡の前やらにたくさん並べらている。なぜそんなに象が好きなのだろう? なにか深い意味でもあるのだろうか?
しばらくのあいだ悩んだ末、彼女が最終的に選んだのは、象の顔の形をした南京錠だった。ツル(掛け金)の部分がちょうど鼻の位置にあり、鍵を差し込み回すと、まるでその鼻が伸びるようにして解錠する。なぜこんなものを…?
彼女はいつも何を考えてるのかよくわからない。
-------- -------- --------
二日目の朝。
僕の浅い眠り(同部屋の例の欧米人たちのせいだ)を破ったのは、枕元のスマホだった。………
▼【あわせて読みたい】
この記事が参加している募集
わたしをサポートするなんてアンタおかしいよッッ!ありがとう!