村上春樹『街とその不確かな壁』を読んで
71歳になった村上春樹が選んだのは、40年前に書いた作品を書き直すことだった。つまりこれは、あの頃の一人称視点の小説であり、海辺のカフカ以前の春樹の小説の要素が集結したような話であった。そこにはユミヨシさん的要素を持つ人や、緑のような一面をもつ人がいる。子易さんは、やはりどこか河合隼雄先生を思わせるところがあり、同時に羊的でもある。子供の交通事故のエピソードにはレイモンド・カーヴァーの影がみえる。100%の女の子がいる。図書館があり、深い穴があり、ロウソクの灯る小さな部屋がある。まるで村上春樹のアベンジャーズ・アッセンブルだ。
もちろん、40年間の歳月が変えたものもたくさんある。むしろ、ほとんど何もかも新しくなっているといったほうが正確だろう。主人公は「僕」から「私」になり、45歳の男には鼠や永沢さんのような友はいない。そう、45歳の男には共に歩いてくれる友がいないのである。真に独りであり、孤独であることに慣れている。研ぎ澄まされたペンによる文章はどこまでも気品高く、フィッツジェラルドを思わせる美しさがある。あるいはスタン・ゲッツのように、シックで無駄がなく自由自在でありながら完全にコントロールされている。僕はニルス・フラームを聞きながらこの本を読んだ(ニルス・フラームは坂本龍一がレストランのために選んだBGMのプレイリストで知った)。アルバムとしては、SoloからTrance Frendz、Solo Remains、そしてAll Melodyあたり。
あるいは登場人物が、主人公の物語をすすめるための装置のように描かれていると批判する意見があるかもしれない。ではあなたはこの一人称視点の現実世界において、他者を自己と同等に理解したつもりになっているだろうか。それは言うまでもなく不可能なことだ。特に一人称視点の小説において他者の心内が深く理解できる形で描かれず、その描写を示唆的に理解し主人公の物語が進行することは、むしろ現実に即した誠実なものであるといえるだろう。
人生の早い段階で100%の女の子と出会うこと。そしてそれが失われること。壁の向こう側に行くこと。そしてほとんど誰にも理解されないことを信じること。その時なにが起こるのか、集中して、丁寧に、全力をつくして書かれている。向こう側にいくには信じることが必要になる。そしてやはり必ず帰ってこなくてはいけない。帰ってくるにもやはり信じる心が必要になる。影は私であり、私は影なのだから。
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