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私を傷つけているのは私だとわかると冷静になる
”No one can hurt me, that's my job."(誰も私を傷つけられない。傷つけられるのは、私だけ)
おなじみ、Byron Katieの言葉だ。彼女はよくこの言葉を使う。
例えば、誰かがあなたを叩いたり、無視したり、罵ったりして傷つけようとしても、実際にそれらの行為はあなたを傷つけられないという。
そこで傷つけているのはあくまであなたの「頭の中のストーリー」であって、相手ではないという。
そのストーリーというのは、「相手は叩くべきじゃない(のに叩いたわね)」とか「相手は罵るべきじゃない(だってこんなに頑張ったのに)」とか「私が地味だから無視したんだわ(そうに違いないわ)」ということ。結局は自分の考えが自分を傷つけているだけだというのだ。
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昔それを聞いた時は、言っていることは理解できるけど同じように感じるわけではなかった。私は叩かれたら傷ついたし、罵られれば泣いた。
それがだんだんと、傷つくことがあっても「私が私を傷つけているだけだな」という感覚が育ってきている。初めて聞いてから数年経った今、すごーーくそんな感じがする。
誰かと喧嘩して怒った時、「ああ〜私はあの人が私の気持ちを理解するべきだと思ってるんだな〜」と自分のストーリーを見つける。
仕事で怒られて(または失望されて)傷ついた時、「ああ〜私はがっかりされるような人間になりたくないって思っているんだな〜」とストーリーを見つける。
結局は、私の作った理想と、現実が違うことに私が打ちのめされているだけだと気づく。ただの出来事に、色をつけたのは私なのだ。そうすると、「私を傷つけているのは私だ」という感覚がわかってくる。
そうすると、たいていの出来事は大したものではないと気づく。そして私の中の怒りや悲しみは、マイルドなものになっていき、感情の上がり下がりが減ってくる。これが心電図だったら、もうすぐ死ぬ。
でも同時に、怒りのエネルギーがないと動けないことがあるんじゃないか?と心配になる時がある。権利擁護だって、対人支援だって、私が動く感情を持っていないと続けられないのではないか。私たちには、感情をぶつけあう相手が必要なんじゃないか??
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それがそうでもないらしい、ということも最近感じる。感情で動かなくなった分、私は以前よりも冷静だ。「まずできることを」「まず目の前のことを」と取り組めば、活動はちゃんと続いていく。
そもそも、「権利擁護とはこうあるべき」という形があるとしたら、それもまた私の作ったストーリーだ。
冷静になった分、より大切なものを大切にできる。誰かとかかわりながら、頭の中で自分のストーリーを分析している私は、なんだかいい。
この感覚で10年前に戻って仕事したらもっとうまくやれるんじゃないかと思うけどそれもまた私のストーリーであってうんぬんかんぬん(なんやねん
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2023年のテーマは洒洒落落。物事にとらわれず、さっぱりと生きたい。そんなハマダのこだわりレスな記事はこちらに収めます。
ハマダユイ
ソーシャルワーカー11年目。オンラインカウンセリングや相談室バオバブで個別相談を受けている。精神疾患にまつわる悩み事、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと…。いろんな人と一緒に作戦会議を開く毎日。
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