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対話しているのは、相手じゃないかもしれない

最近、死者たちと対話している私です。(わぁ、言葉にしてみると、ちょっとおっかないかしら)

ふと考え事をしている時に、「あの人だったらなんて言うだろう」と思う時があります。

そんな時に、その人がとなりにいて、「私はこう思うよ」「こうしたらいいと思うよ」など言ってくれる想像をするのです。

それ以外にも、「こんな時、あの人だったら反対するだろうな〜」とか「こんなところをあの人に見られたら怒られちゃうかしら」なんてこともあります。

(たとえば、みかんを食べた時に、皮をそこらへんにほっぽっとくと、脳内に亡くなった祖母が出てきて「ユイちゃんはみかんを食べたら食べっぱなしなんだね!」と言うので「ちがうの、これから片付けるのよ、おばあちゃん」なんて返事をするわけです。)

マナーをいつも注意されていた私


そんな感じで死者たちと話しているうちに、気付いたのです。


私は生きている人と対話する時も、同じことをしているんだよな、と。


対話をするというのは、実際はその一瞬だけの関係だけではなくて、お互いに背負っている経験や関係性が交差するということです。

相手から言葉をなげかけられた時、その言葉と今までのその人との関係を組み合わせて、「この人、嫌な気持ちになるかもな」とか「この人だったら私の気持ちわかってくれるだろうな」とか「どうせわかってくれないだろう」とか、いろんなことが頭の中をぐるりと巡ってから、相手に返事をします。

(たとえば、あまり話したことがない人から「元気?」と聞かれれば、「元気です〜」という返事で済ますことを、昔からの友人には「全然元気じゃないのよ!こんな嫌なことがあったのよ!」と全部をぶちまけることがあったり)

その時に目の前にいるのは、ただ純粋な「相手」ではなくて、「私がつくった物語を投影した相手」ということです。

(たとえば、誰かと喧嘩した時、一人で悶々と「次に会ったら、きっとこう言ってくるだろうから、こっちはこう言ってやろう!」とかイメトレしたりしますよね。あれこそ私がつくりあげた相手と勝手に喧嘩しているわけで)

つまりは相手が生きていても死んでいても関係なくて、私は私のつくりあげた相手と話しているわけです。そりゃ、死者とも話せるわけだ。相手が何を言うかということは、私の物語が生成してくれるから。生成AIだって同じ方法で誰かのセリフをつくっているのですよね。

物語をつくるのをやめようと思っても、無理だと感じます。相手との関係には、私たちだけの歴史があるから。

つまり、私たちは(主語を勝手に拡大しました)、物語なしに相手を見ることはできないのではないでしょうか。


これだけ聞くと、なんだか残念な話に思えるかもしれないのですが、私はここにロマンがあると思う。

誰かと対話している時、私の中に壮大な物語があるわけです。それを発見して、丁寧にながめて、いろいろ分析してみたり、解釈しなおしてみたりと、更新することも可能なわけです。

相手そのものを変えることはできないし、相手の「本当の姿」みたいなものは手にいれることはできません。

でも、自分の物語を更新することは、相手との関係も更新する可能性がある。


いい関係は、お互いの物語がいい状態。それはそのままでいいと思う。でも、もしうまくいっていない関係があるなら、自分がつくった物語を一度ながめてみてもいいかもしれない。

私は相手にどんな物語を投影しているのか?って考えること、すごい楽しいかもしれない。


私は死者との対話は、彼らと私との物語なんだと実感して、余計大事に思ったのでした。脳内に出てくる彼らは決して本当の彼らじゃないけど、大事にしよう。

そんな発見でした。うまく伝わるかわからないけど、とりあえず言葉に残しておきます。これって、多分ヴィトゲンシュタインとか言語関係の哲学者たちがすでに言ってるんじゃなかろうか…知っている方がいたら教えてほしいです。

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2024年のテーマは、やめるまで楽しむこと。手放すことを恐れず、その瞬間までを楽しめばいい。そんなハマダのこだわり記事はこちらに収めます。


人と人とのアイダにも収録


ハマダユイ
ソーシャルワーカー12年目。大学教員をやりながら、相談室バオバブで個別相談を受けている。精神疾患にまつわる悩み事、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと…。いろんな人と一緒に作戦会議を開く毎日。
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