見出し画像

人を失う時、それぞれの解釈がある

久しぶりのnoteです。

最近、仕事でお世話になっているリーダー二名を、立て続けに見送る機会がありました。なんの前触れもなく、突然天国に旅立ってしまったのです。

私の人生において、とても影響力のあるお二人でした。お一人目の訃報を聞いてショックを受けているところに、もうお一人の訃報が重なって、悲しいやら信じられないやらで、しばらくぼんやり過ごしました。

両者ともにお通夜や葬儀にたくさんの人がいらして泣いていて。お二人が愛されていたことが伝わって、また泣けるのでした。

そしてたくさんの方と、悲しみや思い出を共有しました。私にとって大切なグリーフケアで、ずいぶんと救われました。


早すぎる死を悼む人がたくさんいました。

「まだお若いのに、辛いね」
「まだまだ、やりたいことがあったでしょうに」

やりきった人生を称えて見送ろうとする人もいました

「最後の最後まで仕事をして、本人にとっていい人生だったね」
「やりたいことに全力投球した人生だったね」

それらの言葉を交わしながら思ったのです。

ああ、私たちは人を失う時、それぞれがその人の死について解釈をもつのだな〜と。

もちろんご本人たちがどう思っているかなんて知ることはできないので、その解釈に正解はなくて。でも、私たちは自分の価値観を通してでしか、その死を見ることはできないのですよね。

その解釈はなんでもいいのです。辛いものでも明るいものでもどちらも。でも誰かの解釈を否定したくないな〜とか。私の解釈は私だけのものにしておこう〜とか。

そんなことを思いながら、故人に思いを馳せるのでした。

そしてリーダーが不在となった時、残された人はこんなにも一致団結するものなんだとか、その人への想いでこんなに強く繋がれるんだとか、胸が熱くなる場面もたくさんありました。

共に生きよう。

私のまわりにいてくれるみんなと、共に。


すっかり立ち止まっていましたが、少しずつ前に進んでいきたいと思います。


いいなと思ったら応援しよう!