雑記20/07/24金祝 『断片的なものの社会学』読んだ、他人のブログ、田舎のほったらかし、note的でないブログ
岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社 2015年刊)を読んだ。
この本を知ったのは古舘伊知郎さんの深夜のトーク番組「トーキングフルーツ」(2016~2018年)で、岸先生がゲストに来ていたとき。
紹介された本の内容は、断片的で、周縁的で、基本的に「面白いものではないもの」「注目するようなものではないもの」について目を向けるエッセイ? 随想? みたいな感じだった。
といっても、みうらじゅん氏的な「面白いものにする」感じではなく、あくまで、なんでもないものに留めておく視点。
やっと読んでみて、本当に面白かった。
根本には、差別という問題にどう対すればいいのか、という姿勢が横たわっているのだけど、それに真正面から向かうだけでなく、そうやって「区分けすること」への、なにかゆっくりとした考えの断片たち、でもあるというか。あるいは、ちょっと気になるけどオチはない、なくていいというある出来事たち。
旅行に出かける夫婦の(架空の)話の展開にはやっぱり驚いた。最後の段階については、いまだによくわかってないけども。
好きだったのは、「他人の何でもないブログをよく覗いている」というところとか。開設して、「マクドのテリヤキ最高」と書いたきり何年も更新されていないブログがあるとか、
と思えば、
女性装の自分の写真とともに、その服装には何も触れず、日々の本当になんでもないブログを書き綴っている人がいる、それは「なぜ女性装をするのか」という疑問・マイノリティに向けられる視線…が存在しないユートピアをそのなかで実現するようだった、とか。
そういえば前読んだバクシーシ山下さんの本にあったのは、
若い女性が自分の服やアクセサリーを売るサイトがあり(ちょっと前の本なのでメルカリではない)ちょこちょこ見ていた。そこに載せられたある写真は、服の派手さオシャレさにそぐわない
「畳」
の部屋で撮られていて、そこにその女性の理想と現実のようなものが見えて印象に残っている、という、極悪に人の本性を抉ろうとするバクシーシさんらしいものだったが、
そういう、ポロリ感というか、なんだか転がっているもの、というのはある。
十年位前、都会暮らしに疲れて…というほどでもないがそんな気分の時に、ふと田舎の道で見たものにうわーいいなあ、と思ったのは、草の生えた空き地? に置いてある、それにも草が生えかけている、トラック、だった。
つまりそこには、「計画」がなかった。誰も、どう草を生やそうとか、このトラックをのちのちどうしよう、ということを考えていなかった。いないように見えた。
ただ、駐車させた「時」があって、それを最後に、なんとなく時間が過ぎていっている。
だれのチェックとゴーサインも経ていないもの。
と、
それをこうしてnoteに書いてるわけだけど、そもそも一連の「雑記」なんつってるこの自分のnoteというのはおそろしくnote的でない、というか、
実直に言えば、noteの、
「他人に貢献する」「わかりやすく書く」「有益なことを伝えたい」
という感じのムードが、
「そんなんじゃもうブログじゃないよ!」
と、思う精神があって、
それを、岸先生のこの本で、あ、そうそうそう、ブログって、そう、そういうとこがいいんだよねー。
なんて、思ってしまった。
岸先生は、小説も書かれているそうだけど、もうすでに、この本が現代小説みたいなものじゃないか。