あたしの人生、人の役に立つか?9
書きながら色々なことを
思い出してきた。
透析で看護師をしているときに
二人目の妊娠が分かり、
復帰後のタイミングで
平日は一般外来、
土日祝日は救急外来で働くという
ことになっていた。
復帰後と言っても、
産後2か月で復帰。
育休は今とは違い、
少しの手当てが出て、
復職してからお金が
払われる仕組みだったと思う。
私は少しの手当てでは
生活ができないと思って、
育休は取らずに
産前産後の休みだけをとって
仕事に復帰した。
復帰するのはいいが、
生後2か月の赤ちゃんを
夫が見てくれるはずもない。
かといって、
公立の保育園に預けるには
6か月から。
それもそんなに急には決まらない。
たまたま、勤め先の病院が
託児所があったので相談したところ、
「え?? 昔はあったけど、
今はそんな小さい赤ちゃんは
受けれ入れてないんです。」と
断られてしまった。
けれども、
出来ないというわけではない、
ということで
色々相談して
産後2か月で預かって
もらえることになった。
敷地内に託児所があったため、
休憩の間におっぱいをあげに
託児所に行っていた。
託児所に入ると、
子どもたちの荷物を置く棚があり、
赤っぽい床のせいか、
全体的にあったかい印象のある
託児所だった。
おっぱいをあげるために
先生が和室にエアコンをつけてくれて、
静かな部屋を用意してくれていた。
そこにうちの子が寝かせされて
待っていた。
私はおっぱいをあげながら、
体を畳の上に伸ばして、
ひんやりとした畳を感じながら
目をつぶって
リラックスしていた。
家でも自分の時間がない
私にとって、
この時間はとても
豊かな優雅な時間だった。
ちょうどこの頃
授乳時間として
仕事中に確保できるという
制度ができたところだった。
が、職場の先輩たちに
そのことを私も言ってないし、
上司も説明していないから、
「忙しいときに!」と
先輩看護師に
嫌そうな顔をされたことも
何度もあった。
この頃はパソコンが
導入された時期ではあったが、
基本的には紙のカルテ。
検査データを患者さん一人ひとりに
貼ったり、診察のたびに
レントゲンのフィルムを診察室に
用意したりなどもしていた。
なので、診察以外の仕事も多かった。
先輩が嫌味を言いたくなるのも
当然であった。
ここまでが平日の仕事内容である。
土日休日は
救急外来での仕事となる。
実は救急外来に
異動になると
分かった時点で
無謀だな、、、と
自分ではわかっていた。
元々私は
鳥取の看護学校で
看護師免許を取り、
そのあと大学に編入し、
そのあと語学の専門学校へ
進学していた。
なので、本来なら
卒業すぐに医療現場で
揉まれて技術を身に着けて
いっていたと思うのだが、
私は進学を3年追加して
しまったため、
どうもばたばたする現場に
抵抗感というか
苦手感を持っていた。
とはいえ、
働かなければならない。
仕事を覚えないといけない。
異動になる前は
救急外来に来て、
物品の場所、注射の仕方の
復習を同僚の看護師に
教えてもらって、
なんとか異動のときには
仕事ができるように頑張った。
主に夜間と休日の対応になるため、
外科系の医師の処置の仕方、
これも先生によって全然違った。
けがをしたときの
軟膏の付け方などその一例である。
ある先生は、ガーゼにねっとり
軟膏を付けて
患部にペタ!というタイプ。
ある先生は、
ガーゼの上に軟膏を置き、
木で作ったアイスのスプーンのような
へらで、ガーゼの上の軟膏を
平たくまんべんなく伸ばす先生。
色々であった。
その先生にあったやり方を
覚えるのもちょっと大変だったが、
慣れてくるとパターンが
あるのですぐに覚えることが出来た。
救急外来とMRI、CTなどの
検査室は近くてすぐ行けるのであるが、
患者さんを寝かせて
ストレッチャーで運ぶのは
1人では結構大変だった。
手術室の経験がないから
オペ前の準備等も知らなくて、
外来からオペ室に患者さんを
連れて行って困らせたことがあった。
苦いけれど
懐かしい思い出である。
健診のときなどに
採血がうまい看護師、
そうじゃない看護師って
なんとなくわかると思う。
あれは、本当にセンスだと思う。
もちろん技術なので、
練習すれば上手になるのだが、
血管の走行や深さを
想像できる人がうまいのだと思う。
私は、はっきり言って
センスがなかった。
採血は誰でも練習すれば
できるのだが、
点滴をしばらくする間は
関節のところに針を刺してしまうと、
動きづらいため、
じゃまにならないところに
針を刺して、留置しないといけない。
動きのじゃまにならないところは
皮下脂肪が多かったり、
年を取ると、血管が動いたりで
結構難しい。
どうやったら上手くできるようになるか
上手な看護師のやり方を見ては
練習していた。
努力していたせいか、
仕事はさほどできないけれども
まわりの同僚からは優しくしてもらえて、
苦手な仕事内容ではあったが、
楽しく仕事が出来ていた。
なんとか慣れていったが、
やっぱり苦手意識があるからだと思う。
救急車のサイレンを聞くと、
仕事!と頭が切り替わり、
休みの日なのにサイレンが聞こえると
仕事モードに切り替わり、
気持ちがゆっくりできなかった。
何もサイレンが鳴っていないのに、
鳴っている気がして、
仕事中も必要以上に
気が張っていた。
この頃の私の体重は
今よりも10キロくらいやせていた。
常に気が張っている状態で、
ストレスフルなことをしていたのもあるし、
夫の介護や子育て、
お金の心配もあってエネルギーを
使っていたんだと思う。
何より、
食費にまわせる十分なお金がなかった。
私がいた病院の救急外来の休憩室は、
休憩室と言える個室はなく、
診察室の後ろに薄い黄色の
古ぼけたカーテンと
これまた古ぼけたソファを置いてあった。
小さなテレビもあったと思う。
冷蔵庫もあった。
そこで休憩したり、
待機したりしていた。
そこで夜食、お弁当を食べたりする。
この頃持っていく弁当もなく、
「見られるの恥ずかしいな。」
と思いつつ、
納豆1パックとオニギリ1個を
持っていったら、
「え?それだけ?」
と一緒の勤務になった
看護師にびっくりした顔で
言われたことがある。
私がダイエットをしているとか
していないとか、
そんな話は全然していない。
けれど、
私がダイエットではなく、
「食べるものがなくて
これだけ」という
状況をすぐに察してくれたのか、
そのあとは何も言ってこなかった。
今思い出しても、
恥ずかしいやら情けないやら。
休憩室のどこに座っていたのかも
よく覚えている。
この頃の私は
誰が見ても憔悴しきっていたのだと思う。
託児所の先生から
「古古米だけど、安くで売れるからいる?」
と言ってもらい、
お米を安くでゆずってもらったり、
友だちが家でごはんを
子どもたちも一緒に
食べさせてくれたこともあった。
この頃の私は、
「今は戦争中。
がまんがまん。」と
1人だけ戦争中だと思い込んで
貧しさと余裕のなさに
目を背けて頑張っていた。
今思えばまったく意味のない
無駄な努力をしていたのだが、
仲の良い友達と話したとき、
つい、
ほんのつい、
「ひもじい。」と
言ってしまった。
それを聞いた友達が、
涙を浮かべて、
「ゆみちゃん、
もう無理なんと違う?」と
色々な方向を見るように
促してくれていたのだが、
この頃の私は、
お腹が空いて、
目の前の子供も
お腹を空かせていて、
仕事をして
お金を稼いで
借金を返して
子育てをする。
これ以上のことを
考える余裕が全くなかった。
今思えば、
この時点で家を売って、
実家に帰るなり
なんとでも方法は
あったのだと思うが、
余裕がないときは
まわりも見れず、
まわりの声も耳に入らない。
友だちに野菜や
お菓子を分けてもらったりして、
助けてもらっていた。
食べ物に困窮しているので
色々なものが困窮していた。
産後2か月で復帰し、
昼間は1回の授乳時間では、
おっぱいはすぐにとまってしまった。
搾乳をしていたときもあったが、
くたびれすぎてしまった。
そのためミルクを買わないと
いけないのだが、
ミルクも買うお金もなく、
一人目のときと
全然違う状況に情けなくなり、
申し訳なくなりながら、
牛乳を薄めて飲ませていた。
お風呂に入る水道代も
惜しくなってしまい、
週1回程度の入浴で、
化粧を落とすのも
お金がかかるため、
サラダ油で化粧を
落としたりなど、
今思えばひどい生活をしていた。
ガソリンは今ほど高くないが、
それでも紙のお金がないため、
500円分のガソリンを
大事に使っては
給油していた。
次回は、「私の仕事 その3」です。
お楽しみに。
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