「娘が片付いた」
このところ向田邦子さんのエッセイ・小説や関連本を味わうように読んでいる。
図書館で借りるもろもろ新刊本は返却期限があるために急かされる気分で読み進むことになる。しかしさすがに死去して30年も経った向田さんの本は競合がいないから、返却期限がきても延長することができるのは気分的にありがたい。
向田さんのエッセイは文章のキレ味や確かな記憶力に裏打ちされたエピソードの温かさが読ませどころだが、短編小説となるとどうしても昭和の匂いが随所にあらわれてきてしまって「黴臭いものを読んだなあ」という気分が先に立ってしまっている。
ある中年夫婦を描いた作品で「片付いたと思った娘が戻ってきた」なる表現があった(ような記憶だが勘違いかもしれない)。辞書でも「片付く」の用例として「(娘が)嫁ぐ」とあるが、「なんだかモノ扱いしているみたいで、いまはなかなか使わないよなあ」と思う。
こんな感慨を持つには理由がある。
娘こそいない我が家だが、28歳になる長男がマンションを購入する決断をしたのにあわせてお付き合いしている女性と結婚することになった。6月には引っ越してゆく運びである。
22歳の次男は大学卒業が正式に決まった。インフラ系の設備会社に内定をいただいていて、どうも勤務地は地方を回ることになりそうな雲行きだ。いつまでもフラフラと末っ子体質なので大丈夫なのかと心配になるが、ま、頑張ってもらうしかない。
ということは。
当たり前のように4人だった家族構成は、今年のなかばにはいきなり老夫婦2人だけになるということだ。子どもたちが成長してひとりだちするのは喜ばしいことだが、唐突すぎてちょっと想像がつかないぞ。
あまり実感がなかった「育てあげた」「片付いた」という言葉が生々しく目の前に立ち上がってくる思いなのである。
(24/3/10)