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「時計を5分進ませる」

まったくもって「大人のお洒落」を楽しむ嗜好は持ち合わせていないが、鞄と腕時計は好き。dマガジンでも、特集を組んでいる雑誌があればなんとなく眺めている。

あまり高級なものに走ることはないが、現役の腕時計が5本あるので曜日ごとに登板させて気分を変えている。

このうち電波時計は1本だけ。いまどきのクォーツ時計は、たとえ数千円のチープカシオですら、数カ月間放置しても誤差は1分程度。日常づかいではなんの問題もない精度だ。生放送セクションに在籍していた際も、職場のいたるところに放送運行用に管理された時計が設置してあったので、腕時計にそこまでの正確さを求めないでもよかった。

機械式が主流だったころ、「腕時計は狂う」というのが常識だった。街角では銀行の支店に掲示されていた時計が信頼感を発揮していたものだが、そういえば、まずその銀行の支店自体がめっきりみかけなくなっていて、隔世の感がある。

NHKで放映していた「刑事コロンボ」が大好きだった。倒叙ミステリーなので、犯人とコロンボの丁々発止のやりとりがみどころ。

どこかの回で、犯人がコロンボ刑事に「私は几帳面だから、時計はいつも5分進めているのだ」と明かしていたことを憶えている。犯行トリックや事件解決のカギになるエピソードだったかまでは知らないが、「へえー、なるほどしっかりした大人はそこまでやるもんなのか」と子供ごころに感心させられた。

大人になったいまになってよく考えると「腕時計を5分進める」ことがそんなに効率的だとは思えない。「その5分があれば1本前に乗れたはず。時計のせいで諦めちゃったなんて、悔しい!」ということもあるかもしれない。

コロンボ時代の犯人心理の背景にあるのは機械式時計の精度への薄い信頼感だろう。テクノロジーの進化はこうした日常のちょっとしたストレスも変えたのだな、と思う。
(22/3/23)

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