偏見なしに少数民族を理解する努力
「少数民族のヤノマミ族とベネズエラ軍がWiFiをめぐってトラブルになり、軍の発砲で4人が死亡した」という記事を見た。
この少数民族の名前は、新潮文庫「ヤノマミ」という書籍があるから知っていた(蔵書リストによると自宅にあるはずなのだが未読。それどころか本の山に埋もれていて、探すこともできないありさまだ)。「アマゾンにいる」ということは薄ぼんやりと認識していたが、ベネズエラという具体的な国名とは結びついていなかった。
短い記事なのでトラブルの詳細は不明だが、そもそも「ヤノマミ族と軍はこの一帯でWiFiを共同使用する約束を結んでいた」というのはどのようなものだったのだろう?
「アマゾン流域の少数民族」と聞くとどうしても「現代文明から隔絶されたジャングルの奥で槍を抱えている人たち」というイメージが真っ先に浮かぶし、実際に新潮文庫の表紙写真もそのままそれである。その人たちがスマホ?パソコン?をWiFiにつないでいる姿が想像できない。この記事もそこに「興味ポイント」を見出したから記事になったのだろうが、それは「現代文明から取り残された(同化を拒否した?)少数民族」に勝手にロマンをかきたてられているだけの偏見だ。
日本人と見れば「フジヤマ、ゲイシャガール」しか知らず、メキシコの人たちはみんなソンブレロを被ってサボテンの脇で歌っていると思いこむ。そんな通りいっぺんの理解でいることは、すぐに「だからあいつらは」という民族差別にもつながってくるだろう。
21世紀前半、「モノ」だけではない「情報」の価値はついにこんなところにまで浸透しているのだ(そもそも「こんなところにまで」という感覚が偏見か)。情報に溢れた日本に居ながら、その“情報”を駆使して相互理解を深めることができていない。反省しきりである。
(22/4/11)