シルクロードの歴史11『イスラムとシルクロード-後編-』
1. アッバース朝の誕生と繁栄
西ヨーロッパ進出に失敗した頃のウマイヤ朝ではその領土拡大のスピードとは裏腹にシーア派やハリワージュ派などの反乱が続出しており、750年にはイスラム教の開祖ムハンマドと血縁関係にある一族の一つアッバース家が、反対勢力を煽って、アラブ人ではないとして差別されていたペルシアの人々や、そもそもウマイヤ朝を認めないシーア派と協力して「アッバース革命」を起こした。
この革命で王家はほぼ全員が殺害されウマイヤ朝は滅亡、イスラーム勢力はウマイヤ王朝に続きアッバース王朝による支配を受けることとなった。ウマイヤの王家はほぼ全滅したものの、一人のみが逃亡、イベリアでコルドバを首都とする「後ウマイヤ朝」を建国し、アッバース朝のカリフに従わず、独自にカリフを名乗った。
アッバース朝はバグダードを新たな首都と定め、イスラム教発祥の地アラビア半島のアラブ人だけではなく、民族は関係なく全てのイスラム教徒が平等であるという事考えのムハンマドが唱えたイスラム教の教義を守った政治を行ない、この時代に多くのペルシア人が活躍、これによりイスラーム科学が大きく進歩していくこととなる。
ちなみに、新しい首都バグダードはダマスカスからシルクロード貿易の中心地の一つの地位が移り、大きく発展を遂げ、人口は150万人と、人口が現在の30分の1程度の2億数千万程度だった当時の世界ではあまりに多いものになっており、経済力・人口共に世界一位の都市となった。
2. その後のシルクロード
バグダードがここまで繁栄した背景として、アッバース朝は成立の翌年に中央アジアへのさらなる拡大を行ない、その中で西方拡大を続けていた唐とタラス河畔の戦いで激突しており、安禄山の安史の乱や吐蕃の侵略などに追われていた唐はアッバース朝と戦争を繰り広げることはなく、アッバース朝はそのままシルクロードの利益の多くを得ることができていたという理由があると思われる。
中央アジアやペルシアなど中国方面に近いまさにシルクロードの地域というのは873年に成立した「サーマーン朝」というアッバース朝支配下の地方政権に支配されており、このサーマーン朝は先の記事で記したソグド人の行なっていた貿易ルートを受け継ぎ、その支配下の中で現地の遊牧民達はイスラム教に改宗し、アラビア文字を使い始め文化的に同化していった。
また、サーマーン朝は事実上、アッバース朝から独立した王国であるとされる場合が多く、この時代には他にもウイグル自治区からウズベキスタンあたりを支配して大繁栄したアジア系の遊牧民(チュルク系)による「カラハン朝」などが存在しており、サッファール朝、ターヒル朝、サーマーン朝はシルクロードの重要地帯であるペルシアを取り合った。
ちなみに、それ以前から、北アフリカはルスタム朝、アグラブ朝、イドリース朝などの支配下になっており、豊な土地で経済的に重要なエジプトもトゥールーン朝として独立している。
これらの王国達は名目上はアッバース朝の支配下の国と名乗ってはいたものの、アッバース朝の首都バグダードのある本拠地のイラクの南部ではザンジュの乱という反乱で869から883年の14年にわたる独立政権ができるなど、アッバース朝は分裂し非常に弱った状態となり、残っているのはカリフという称号の権威だけとなった。
3. イスラム王朝とシルクロードのトルコ人
10世紀には北アフリカ全域やアラビアの西側を占拠したファーティマ朝がアッバース朝のカリフに反し独自にカリフを名乗り始め、同じ時期にはブワイフ朝がアッバース朝を占領しアッバース朝のカリフの権威を利用してイランやイラクを支配するなど、もはや、統一されたイスラム教徒の国は完全に消え去る状態となり、イスラム教徒達の王国が各地で鎬を削るといった状況となった。
その乱世の中では、当然、強い軍隊が必要になり、アラビアのイスラム王朝達は中央アジアでカラハン朝などを築いている、強力な騎馬遊牧民でかつてシルクロードを担った突厥や回鶻などの国家を建国した民族でもあるチュルク系の諸民族を軍に招き入れた。
このシルクロードの乾燥地帯から連れてこられたチュルク系諸民族の戦士達は「マムルーク」と呼ばれ、これがあまりに強力であったため西アジア現地のアラブ人軍団やペルシア人軍団などは消滅した。
これにより力をつけたチュルク系諸民族は、中央アジア、インド、西アジア、エジプト、近東などに前編で先述したセルジューク朝など数多くのイスラム王朝を建国することとなり、現在でもトルコ人、アゼルバイジャン人、トルクメン人などのチュルク系諸民族が中東地域に存在する状態となっている。