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アイヌの歴史19『オホーツク文化-前編(アイヌとの関わり)-』
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オホーツク文化とは3世紀から13世紀頃までオホーツク海沿岸の樺太、千島、北海道に存在した文化圏の考古学的な名称で、3世紀に樺太南部の鈴谷(ススヤ)文化から生まれ5世紀頃から北海道に進出、9世紀には北海道や千島から樺太に撤退し、13世紀頃にアイヌ文化の拡大により収束していったという歴史を大まかに辿っていった。
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オホーツク文化は土器の形に基づいて時代が区分されていて、鈴谷文化から派生したばかりでその要素の強い3から4世紀頃の頃を初期と呼び、この頃から南樺太や道北・道東へと進出していくこととなり、次に「十和田式土器」というものが作られた5から6世紀を前期、千島列島や奥尻島・北樺太などにまで拡大した7から8世紀を中期、各地で様々な様式の土器が誕生した9から10世紀を後期、さらに各地の土器の違いが明確になり分裂に向かった11から13世紀を終末期と呼ぶ。
オホーツク文化後期の9世紀の道東・道北では中世アイヌの「擦文文化」の影響が強くなり、オホーツク文化は消滅して、オホーツク文化と擦文文化が混合した「トビニタイ文化」というものが誕生、その後、千島は噴火や地震で失い人々は居なくなった。
樺太島では引き続きオホーツク文化が続くが、13世紀頃には土器の様子からオホーツク文化の内部の統一性がなくなり、さらにアイヌが南樺太に進出していったことで単一の文化としては消滅したと考えられる。
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また、オホーツク文化が分布していた地域では農耕が行えなかったため、オホーツク文化の住民は基本的には魚や海獣を獲る漁業に依存した生活を行なっており、家畜として豚と犬を飼育していて、豚に関してはすぐ付近に住んでいたツングース系民族達が盛んに飼育していたため、これを輸入したと思われる。
また、ヒグマを狩猟することも多く、これは基本的にアイヌなどとの交易のためのものであったと推測される。
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住居は続縄文文化や擦文文化などアイヌ文化以前のアイヌのものと同じ、穴をほって屋根を被せた竪穴式住居で、海岸に集落を形成していたため、木材や土で補強が行われ、床には粘土が敷かれ安定性を保たせており、集落には複数の家族が暮らしている大型の家と、一つの家族が住む小型の家が存在していた。
また、この集落は秋から春まで共同で大規模な漁を行い、夏に漁獲量が減るため各地の海岸に分散して生活していた。またオホーツク文化の住居の奥には動物の骨が並べられる風習があり、特にヒグマが重要視され神聖視されていたと考えられ、恐らくアイヌ文化時代から始まったイオマンテに代表されるヒグマ信仰はオホーツク文化に由来するとされる。
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オホーツク文化で用いられた道具としては、土器や石器、骨角器、木器などでアイヌと同様に金属を作ることはなく、日本と北方民族を結んで貿易を行なったアイヌとは違って鉄器を交易で入手することもなかったため、発見されている金属器は本州との貿易で入手したと思われる馬に乗りながら戦闘を行うための蕨手刀が墓の副葬品に使われているのが見つかっている程度である。
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また、船の模型からオホーツク文化の人々は擦文時代のアイヌに使われた丸木舟、つまり一本の木をくり抜いた船ではなく構造船、つまり複数の部品を組み立て作る日本の和船のような普通の船を用いていた事がわかっており、これはアイヌ文化時代のアイヌが用いた「イタオマチプ」という構造船の元となったと思われる。
また、これも詳しい数値等は先述(シリーズの記事)の通りだが現在のアイヌの母系のミトコンドリア遺伝子には4割、父系のY染色体遺伝子の1割はオホーツク文化など北方の諸民族に由来するものである。
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オホーツク文化の人々については先述の通り、13世紀頃のモンゴル帝国の記録からニヴフ族であると思われるが、諸説がある。
オホーツク文化もといニヴフの、イオマンテの原型になった熊を崇拝して殺す熊送りという儀式、アイヌ文様の様な模様であったりなどはユーラシア大陸北東部のナナイやオロチ、そこから移り住んできたウリチなどのツングース系諸民族と共通している。
しかし、実際にはニヴフは言語系統的にはツングース系諸民族ではなくどの系統の民族にも属さないという孤立した系統で、このツングース系諸民族の風習がニヴフに伝わった理由は単純に近くに分布していて交流があったからというものであろうとされ、このようなツングース系諸民族の文化との交流が樺太南部に存在していた鈴谷文化をオホーツク文化に変容させたとされる。